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昼下がりに読みたい|ランゲルハンス島の午後

もう一年くらい前のこと、僕は沖縄にあるローカルラジオ局で「文学ラジオ」と銘打った番組を1時間もっていた。番組は僕が過去に読んだことのある小説や詩を紹介しながら、途中で5分前後の楽曲をブレークではさむというもので、聞き流してくれたらそれで結構だし、メールをくれればそれはそれで「いちおう文学的に」返答してみようか、というスタンスのものだった。

普段はひとりで番組進行をしていたので、オープニングトークから楽曲の挿入、フェードアウトからの喋り出し、カットインなんてものも時々やってみたりした。何回かはゲストということで文学に関心がありそうな友人や知り合いを招いたりして、一応ラジオのそれっぽくはなっていたような気がするけれど、今ふりかえってみるとやっぱり恥ずかしい。

今は東京に住む場所が変わって、日々の暮らしの中でラジオをやっていた時の感覚を思い出すことは少ない。けれども、久しぶりに村上春樹さんの作品『ランゲルハンス島の午後』というエッセイ集を読んでみて、ああここを誰かに、でもそれこそ独り言っぽく、もちろん誰かが聞いているかなんて特に気にすることなく、感想やら連想したことをただ話してみたいと思った。

「ただ話してみたい」というとちょっぴり嘘になるけれど、一応はそういう程で、アウトプットしてみたいと思ってしまった。もう僕の前にはVUメーターもなければミキシングする機械もなくて、「あの頃」とは程遠い環境になった、とはいえ、なんとなく思い出すことは出来るのである。暑い沖縄の夏の、日差しから逃れて座ったスタジオの椅子から眺める外の風景、遠くにガジュマルの街路樹がみえて、その上をゆらゆらと電線が風に揺られている、そんな風景を。

「午後」以前のもの

「午後」にはいろいろな午後がある。ちょっと面倒な手続きをふめば、午後の前には「午前」というものがあり、午前の過ごし方次第で午後の在り方が決まってくるように思える。とはいえ、どんな午後にも(あるいはどんな午前にも)、その時間がもつ宿命的なものがこびりついていると思ったりもする。それは太陽が東から昇り、西へと沈んでいくなかで我々が何となく感じることのできる外的な時間の経過に依拠しているかもしれないし、ただ人間自身が孤独のままに感じることのできる体内時計のようなものに依拠しているのかもしれない。だから午後の在り方にはいろいろな形があって、どんなに午前的であろうが、どんなに夜中的(そのような表現があっているかはさておき)であろうが、とりあえず午後であれば、それは午後なのである。誰が何といおうと(おそらく)午後に変わりはない。

なにをそこまで大げさに…と感じている読者もいるだろうが、とある日の「午後」を切り取ろうとすれば、そのくらい大げさにとらえてみることも「時として」必要かもしれない。

もし、「遠い太鼓」が聞こえたなら

村上春樹さんの作品のなかに『遠い太鼓』という作品がある。この作品は、村上春樹さんが海外を転々としながら執筆活動を行う傍ら、メモ書きのように書かれた「日記でもありスケッチブックのような」ものである。紀行文としても読めるし、旅行中の個人的な身辺雑事を綴ったエッセイ集としても読めるので、どんなタイミングで読んでもあまりハズレがない。そんな気ままな旅に出た村上春樹さんには(実際は日本を離れたくて仕方ないという現実的な状況もあった)、旅に出なければならない、あるきっかけがあった。

ある朝目が覚めて、ふと耳を澄ませると、何処か遠くから太鼓の音が聞こえてきた。ずっと遠くの場所から、ずっと遠くの時間から、その太鼓の音は響いてきた。とても微かに。そしてその音を聞いているうちに、僕はどうしても長い旅に出たくなったのだ。

『遠い太鼓』冒頭

そういうわけで長い旅に出た村上春樹さんは旅先でいろいろな人々に会い、その土地の文化や習俗を体験し、また日本に戻ってくる。それは計画された旅というよりは、飽きるまでその場所に居て、気が向いたらよその街に移動する、というようなものだったらしい。だから、まるで何の予定もない日もあれば、災難続きの一日もあったはずなのである(実際そのように書いていた)。そうした日々は、思い返してみれば、あの「遠い太鼓の音」を聞いた日から始まったのだ。

まとめのようなものへと進む前にもう一つ、沢木耕太郎さんの作品『深夜特急』にも触れておきたい。この作品でも、ある朝目が覚めた沢木さんは、インドの朝の喧騒のなかで、「今日この街を出る」と決心し旅を再開するのである。特に大きなイベントがあったわけでもなく、ある朝目が覚めたら「また旅に出たい」と思ったのだ。僕の記憶があまりよくないので、旅に出るための他の理由があったかまでは分からないけれど、とにかくそれはとても唐突なものだったはずである。

ランゲルハンス島へ

いろいろな人間がいて、いろいろな理由で過ごされる「午前」というものがある。もしそれがちょっとだけ話題にのぼるのだとすれば、僕は村上春樹さんの『遠い太鼓』とか沢木耕太郎さんの『深夜特急』とか、はたまた午後に絞って言うのであればサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の最後のシーンを一緒に話してしまうと思う。「まあこんな話題で盛り上がることなんて、大学時代に戻りさえしなければ無いと思うんだけれど、もしこれから先、話題にのぼることがあれば一応話してしまうんじゃないかな」と思う。

大学時代に戻ることはおそらくないから、もし話すのだとすれば、それこそよく晴れた日に、白い丸テーブルに水滴のたくさんついたアイスコーヒーと、とっくに溶けてしまったバニラアイスクリームを置いて、港の奥に立っている白波をぼーっと眺めながら、もちろん腕時計なんて付けてない状態で、しばらくの沈黙さえも楽しみつつ、気が向いたら「いや、さっきの話なんだけどさ、あの午後のやつ…」みたいな感じで話をする時だと思う。そうでもしないと、もう僕は(僕らは)ランゲルハンス島の午後には戻れないはずだから。

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