久しぶりの沖縄と『使いみちのない風景 』 - 文学ナビ
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久しぶりの沖縄と『使いみちのない風景 』

もうかなりの日々を東京で過ごしていて、あの痛いくらいの冬がいつのまにか過ぎ去り、涼しくなったかと思えば蝉が鳴きはじめ、夏の終わりが9月には来てしまった。そしてこれから肌寒い10月へと入っていく。季節がまたひとつ去っていく―部屋の中から夏が出て行き、僕が座っていた椅子に秋が腰かけてタバコをふかしている。「なにか言い忘れたことがあるなら、代わりに伝えておくよ」「いや、いいんだ。べつに大したことじゃないんだ」きっとこんな風に、季節が変わること自体は大したことじゃないし、振り向けばタバコをふかして足でも組んで待っている誰かが居たほうが上手くやり過ごせるのかもしれない。

この大都市にきて思ったのは、忙しさに負けて一日一日をたしかに記憶できないことがかなしいということではなく、こうして季節が次々と「いつのまにか」流れていくことに、大して「驚かないこと」なのではないか、ということである。季節が移ろうように、自分自身の着る服や話し方、考え方までが、特にこれといった違和感もなく移ろいでいったことも別に大したことではないのだ。

ただ流れていくものたち

ある人はこう言うかもしれない。「大事なものは忘れてはいけないよ。忙しさに負けて、大切なものを見失わないようにね」と。たしかに有難い言葉なのだけれど、僕にはちょっとした実感があって、というのも、どれだけ忙しくても、通勤前に乗るバスから見える風景や、港区のビル群を夜な夜な眺める毎に、もう何度も生まれ育った名護の風景を思い出すから、割と大切なもの、みたいなことは忘れたことはないような気がしているのだ。

いつだってここ(東京)にはない風景を考えているし、おそらく多くの人がそうなんじゃないかな、と思う。電車のつり革に掴まりながら、駅構内の地上行きエスカレーターを登りながら、ここにはない、どこか別の場所の記憶を呼び起こしているように僕には見える。それくらい、みんな「大切なもの」がいったい何なのか、よく分かっている。

季節はやってきて、通り過ぎて、そして去っていく。とても当たり前のことなんだけれど、これがとても重要なことだと東京にきて気付けた気がする。そして当然のことながら、僕という人間も変化していく。そしてそこに特に大きな意味はなくて、まわりの環境が変わることも、仕事の量が日ごとに増えていくことも、やはり意味がないことなのだ。こういう風に思えたことは、自分にとって実はとても良いことなのかもしれない。

ある風景を抱きしめて、あの頃に抱いた感情をそのままにして、頑なに時間の経過に耐えること、それは良くないことなんだと思わせてくれたのかもしれない。居心地の良い場所から出て、二度と戻らない覚悟を決めること、それは二十歳前後の人間に一番必要なことなのかもしれない。

ある期間を正しく過ごすこと

村上春樹さんが自身の書いた本のなかで(たしか『遠い太鼓』だったと思う)、人がある期間、たとえば30代という期間を過ごす時、その期間にしか出来ないことをすることは実はとても大切なことで、後になって(40歳とか50歳とかになって)やろうと思っても出来ないことがあるのだ、と書いていた節がある。僕は東京にきて、このことに賛同している。20代の半分をこれから越えるというところで、僕は19歳の時の自分から変化していないことに気づいた。自分自身のとても深いところにある行動指針のようなものが変わっていないことに気づいたのだ。

ある見方をすれば一つの軸があり、一つの価値観があり、ということになるのかもしれないが、それがこの20代の半ばを過ぎる時期に、それほど必要なことではないのかもしれないと、とりあえず思うことができた。20代という区切り方でいいのか、あるいは25歳でとりあえず区切るべきなのか、それは全然分からないのだけれど、事の成り行きにまかせて「一応過ごしてみる」のは意外と悪い選択ではないのかもしれない。

9月のはじめに沖縄に帰省した時、僕は明らかに変化を感じてしまった。かつてと同じ場所を歩いているのにも関わらず、あの頃とは根本的に異質な感情を持ち合わせてその場所を歩いているのが分かった。その時に、変わってしまった実感が足先からじわっと首のところまで上がってくるのが分かって、もう戻れない、ということと、『海辺のカフカ』の冒頭に登場する砂嵐のメタファーが、どこかで聞いた話ではなく、はじめて手触りのある感覚として感じられた。こういう時はかなしいとか、さみしいとか、そういう感情というよりは、ただ実感だけが感じられるのだと、分かったのもこの時だった。

南の島としての故郷

この文章を書こうと思った時、なぜか村上春樹さんの『使いみちのない風景』というエッセイ集が頭をよぎった。普段であれば、紹介したい本が先にあって、その後に文章が付いてくるが、今回はその逆で、文章の後に、紹介したい本がついてきた。だから少し本の内容と離れてしまっているように感じる部分もいくつかあるかもしれない。その「離れてしまっている部分」については正直申し訳ないと思っている。もちろん『使いみちのない風景』という作品を全面的に紹介したい気持ちもあるのだけれど、とりあえずここでは自分の気持ちに後から重なってきた、というニュアンスで文章を書いてみた。

この本では村上春樹さんが書いたエッセイに、写真家の稲越功一が撮った、色々な風景がペアで載っている。作家の村上春樹さんが、小説を1つ書くごとに思い出した「使いみちのある風景」に対し、全く関係のない、断片的な風景が、前後の連続性を一切無視したものとして唐突に思い出されることがあり、そのことを Useless Landscape 「使いみちのない風景」として位置づけ、その風景の意味するものについて想像力をふくらます、そんなエッセイである。決して意図したわけではないのに、ある鮮烈な風景が、ある一瞬が、心の何かを掴んで離れない。言葉では説明のできない、でもある瞬間の自分を、鳥肌が立つほど感動させる。僕らは、そんな風にして思い出される風景の使いみちを知らないのだ。

9月10日、沖縄の朝夕は少し涼しくなる。小高い丘の向こう側から湿った冷たい空気が海辺に流れてくるようになって、昼と夜の寒暖差が、そこらじゅうのモクマオウの枝葉を濡らしていく。南の島の長い夏が少しずつ和らいでいく。沖縄を出る最終日の朝、高校2年生になった弟のリクエストで朝日を見に行くことになった。久しぶりに見る故郷の砂浜と凪の海、遠くにはまだ見えない朝日のオレンジの光で厚い雲が染まっている。眼下には護岸沿いを泳ぐハリセンボンの姿も見える。故郷の、何気ない9月の風景。僕が生まれ育った町の、いつもの風景がそこにはあった。