佐藤正午『月の満ち欠け』 - 文学ナビ
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佐藤正午『月の満ち欠け』

念のため、この記事の最後の文章を冒頭に掲げておく。

「この記事はこんなに長くするつもりは無かった」。

さて、僕の執筆の傾向として、執筆の前後にあった出来事をとっかかりにして文章を組み立てることがよくあるのだけど、今回もまた、そんな感じで始めたいと思う。

この文章を書き始めるにあたって、僕はカフェのコンセントがない2人掛けの席の1つに座っていたのだけれど、パソコンを使うためにコンセントがあるカウンターの席に移った。平日とはいえ、世間ではお昼を食べ終えて少し経った時間帯なので、カフェには一息つきに来た人がそこそこいた。初めに僕が座っていた2人掛け用の席にしても、似たような席はすべて埋まっているような状況だった。だから、僕が席を立ってカウンターに移ってすぐに、隣に座っていた女性が着ていた上着を僕が居なくなった後の席のテーブルに置いて、離れて座っていた連れの男性に声をかけて、その空いた席に座るように促した。僕は座りなおしたカウンターの席でパソコンを立ち上げている間、席を移動する男性をわき目に見ながら、少しイラっとした。

混んでいる店ではそういうことがよくあるし、誰でも経験したことがあると思うけど、僕みたいに少し嫌な気分になる人はいるのだろうか。いるかもしれないけど、もし万が一これを誰かに話して、「ちっちゃい男だな」と思われるのは嫌なので、イラっとしても、いつもそっと心に閉じ込めていた。だからこれまで、明確にこの小さな「イラっと」(あるいは「モヤっと」)について考えたことはなかった。

かと言って、今回もこのことを主題的に論じるわけではないのだが。。。

しかし、この出来事を次のように捉えて、『月の満ち欠け』の紹介といこう。この出来事はつまり、僕がそれまでいた存在していたその席に、間髪入れずに別の誰かが存在し直しているわけだ。僕が消えたそのあとでも、その席は誰かに利用されるのだ。その席に僕が座っていたという事実は、世界から跡形もなく消えてしまう。(もちろん、これが「イラっと」の原因だというのではない。繰り返すが、今回は、この出来事を一面的に解釈しただけで、本格的に論じるつもりは無い。だってそもそも、本の紹介がメインなのだから)

何が面白いって、、、

『月の満ち欠け』の何が面白いって、ありえない話をリアルに、かつ軽妙な筆致で描きながら、「あり得なくないのかもしれない」と思わされるところにある。

しかし、この評し方は実のところ不適切だ。その理由をあらすじを経由しながら説明していこう。

この小説は確かにフィクションである。そして、非現実「的」なフィクションである。ある種のフィクションとは、(それまでの世界には)ありえなかったこと、起こらなかったことについての物語である。その物語はさらに、現実的なフィクションと、非現実的なフィクションとに分かれるが、後者は例えばファンタジー小説などである。そして、『月の満ち欠け』もまた、次のあらすじを読む分には、十分に非現実的なフィクションである。

『月の満ち欠け』あらすじ

物語は、1人の男性が女優の緑坂ゆいとその娘の2人と対面することで始まる(そしてある意味そのことによって物語は、次の始まりを迎えるために、終わる)。妙に大人びていて、「子ども」として対峙していると、その振舞いの落ち着きにいささか戸惑ってしまうその女の子は、名前を緑坂るりといった。男性と緑坂ゆいの対面は二度目であり、ある日の午前11時から午後1時半までのたったの三時半。しかし、その三時間半の対面が実現するためには、何十年という時間と、少なからぬ人の喜びと悲しみに満ちた人生と、少なからぬ人間の死が必要だった。物語はこの対面から始まるといった。確かにその通りだが、それは私たち読者にとっての始まりに過ぎない。この物語の人物にとっての本当の始まりは、この対面から2つほど世代が下る頃、正木瑠璃と三角哲彦(あきひこ)という二人の人物のひそかな出会い(それは雨の日のレンタルビデオ屋の前だった)から始まる。緑坂るりは、この正木瑠璃の生まれ変わりだったのだ。

私たちの現実は常に現実的で非現実的だ

あらすじ最後の1文はいささかネタバレ的雰囲気があるけれど、あまり心配することはない。確かに生まれ変わりが全面的に主題化されるのは中盤以降ではあるけれど、どうも著者は、序盤からそのことを隠そうとしている感じはない。だから、これをあらかじめ知っていても、おもしろさが減じることはない(たぶん)。

さて、いかがだろうか。「生まれ変わりとは、非現実的な話だな」と思うのが自然な反応だ。いや、それを悪いというのではないし、あらすじしか知らなければそれは当然の印象である。むしろ、この小説を非現実的なフィクションとして、ファンタジーとして楽しむことだってできる。しかし僕は、そういった現実/非現実の対立を緩やかに考えるような仕方でこの小説を楽しんだ。

始まりの女性である正木瑠璃は、若くして命を落とす。その死は三角哲彦との愛の途上に突然降りかかる。死は、その存在が消失することであるが、世界にとってその消失はほとんど意味をなさない。もともとなかったものが、また無くなってしまうことに過ぎない。相変わらず、世界は秩序を少しも失うこともなく平然としたままである。私たち人間にとってその事実は時に人生に対するニヒリズムを芽生えさせる。その現実にちょっとイラっとする。それは、僕が座っていた席に誰かがすぐに座ってしまった時に感じる「モヤっと」感に似たようなものかもしれない。

正木瑠璃にとってはそれが我慢ならなかったのだろう。だから生まれ変わった(というのは僕の読み)。三角哲彦の隣に誰かが居座ることが嫌だったから、執拗にその席に居座ろうとしたのだろう。例えば、トイレに立つとき、僕がその席にバッグを置いていくみたいに、別の体に自分を託して。

生まれ変わりは、意外にいろんなところで起こっていたりする。イアン・スティーブンソンの『前世を記憶する子どもたち』という本があるが、この本では、タイトルの通り、前世の記憶を持った子どもたちの事例が紹介されている。これは『月の満ち欠け』の中でもたびたび出てきて、佐藤正午がおおいに参考にしたと思われる本だ。小説の中で、この本の一部が引用される。その引用とは、大まかにこんな感じのことだ。つまり、生まれ変わりは確かに非現実的で、そんなものは信じられないと人は言うかもしれないが、この本の事例を通して、「一理あるかもしれない」と思ってもらえるように書いた、というような引用である。絶対に生まれ変わりはある、と思わなくてもいい、「一理ある」と思ってもらえればいい。引用は、女優の緑坂ゆいの声を通して読まれる。そして、僕には、佐藤正午も基本的に「一理ある」スタンスで書いているのではないかと思われるのだ。

緑坂るりは明らかに前世の記憶を持ち、そのことを意識している。ところで、本人は意識していないけど、他者から見れば、前世の記憶を持っているのでは?と観察されるような仕方で、生まれ変わりが起こっていたらどうだろうか。その場合、生まれ変わりが起こっていても、その生まれ変わりの兆しを見つけることができる人が居なければ、その生まれ変わりは確かに自分にも周りの人間にも知られることはない。そして、その周囲にとって生まれ変わりは存在しない(ように思われる)。その逆に、ある子供が、過去に死んだ人の記憶を持っていて、その人の癖や記憶を無意識に披露したとき、「あの人の癖だ」と観察することができたとき、生まれ変わりは成立する。だから、生まれ変わりは非現実的だという人にとっては、生まれ変わりがその人の周りで観察できていないだけかもしれない。するとそれだけで、その存在を否定することは不誠実だろう。私たちの周りでは、私にとって非現実的なことが、現実的に起こっている世界があるならば、それを非現実だということはとてもつまらないことだ。僕らも誰かの生まれ変わりなのかもしれないだろう。

再び、何が面白いって

「何が面白いって、ありえない話をリアルに、かつ軽妙な筆致で描きながら、『あり得なくないのかもしれない』と思わされるところにある。」

このように僕は書いた。そして、これが正確ではないと言った。

何が正確ではないのかというと、「ありえない話」という言葉だ。佐藤正午はそういう雑なスタンスでこの物語を書いたのではないだろう。だから、別の感想の書き方が求められるが、それはあえて書かないことにする。

最後に。この記事をこんなに長くするつもりは無かった。