筒井康隆のラノベ『ビアンカ・オーバースタディ』 - 文学ナビ
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筒井康隆のラノベ『ビアンカ・オーバースタディ』

イヒヒヒヒヒヒ、イヒッ、イヒヒヒヒヒヒ。

あの日本文学界の巨匠が、ライトノベルに手を出した。あれよあれよと読まされて、知らず知らずに、はて?ここはどこか。

なにやら奇妙な笑いがあちこちにこだまする。

あははははははは。いひひひひひ。

そうか、ここは筒井康隆ワールドか

文学青年、ラノベに手を伸ばす

すでに文化として日本に根付いているラノベ。世界中でファンを獲得して、もはや出版界では欠かすことのできない存在となっている。

しかし、それを日本が誇る文化として顕示することに、いささか抵抗をおぼえる者が多数いる。あるいは、そういう人間のほうが多いかもしれない。純文学より勢いがいいことは確かなはずなのにも関わらず、なんとなく見て見ぬふりをする。

そういう人たちは、例えば又吉直樹の『火花』ベストセラーを打ち出したことに対しては、嬉々として、日本はまだまだ腐っちゃいない、などという。
ラノベも小説だ。純文学を称揚して、ラノベを下賤なものとして見るのはなぜだ。両者に何の違いがある。

いや、違いは確かにある。しかし、その違いが何なのが説明できない。なにせ、ラノベを読んだことがないのだから。読んだことが無ければ、違いも説明できないのも無理はない。そして、説明できないなら、とりあえず伝統にすがりつけば何とかなる(と思っている)。つまり、純文学の袖をつまんでいれば道に迷わないと思っている。

なぜラノベを読まない。読めないのだ。能力的にではない。恐怖でだ。何に対する恐怖か。それは、ラノベを面白いと感じてしまうことの恐怖だ。なぜそんなことを怖がる。それはわからない。ただただ、怖い。

ところで僕は特定の人間に向かって言っているわけだが、そいつは僕のことだ。

そういうわけで、ラノベを読んでこなかった僕は、初めてラノベを読むことになった。ただし、やっぱり(純文学ではないかもしれないが)文学界の巨匠の袖をつまんでではあった。

老・筒井康隆、ラノベに手を出す

筒井康隆がラノベを出版したのは、2012年のことだった。この時すでに70代後半。「このじいさんすげぇな」とおもった。

この人にとってラノベっぽさを出すことなど造作もないことだろう。多少、面白半分でやったに違いない。

彼がラノベを書くきっかけになった本があるそうだ。それは『涼宮ハルヒの憂鬱』だ。かなり名の知れたラノベであることは言うまでもない。同シリーズは全世界で2000万部の売り上げを記録しているらしい。

筒井康隆は、この本に感銘を受けてラノベを書いてみることにしたそうだ。

『ビアンカ・オーバースタディ』あらすじ

簡単に流れを説明していこう。ネタバレ。

主人公はビアンカ。学校一のかわいさを誇る彼女は、自分でもまた、そのかわいさを認めていた。そんな彼女は生物研究部員として、ウニの生殖を観察していた。

ある日、ウニの生殖を観察するだけの毎日に物足りなさを感じていた。そんな時、いつも彼女を憧れのまなざしで見つめる後輩、塩崎哲也に研究の手伝いをお願いした。その手伝いの内容というのが、精子提供であった。そう、彼女はウニの生殖には飽き、ついに人間の生殖を観察することにしたのだった。(この辺はやはり筒井やなと思う)

生物研究部にはもう一人、ビアンカの先輩、千原信忠がいた。ビアンカは、日ごろから彼に対して違和感を感じていた。というのも、彼の研究対象のアフリカツメガエルはそう簡単に日本で手に入れられるものではないし、彼が持ってくる機材もあまりにも高性能だった。

ビアンカが問いただすと、なるほど、彼は未来人だった。聞くと、未来ではカマキリが巨大化して人とを襲い始めているため、その対抗策を探しているのだった。アフリカツメガエルがその対抗策だった。

ビアンカはその話を聞いて、とんでもないことを提案する。人の精子とカエルの卵を授精させてみてはどうか、そうすれば、大きなカエルになり頭もよくなるかもしれない、と。

結局その提案は受け入れられ、信忠とビアンカ(その他数名)は、未来で人とカエルのキメラを、カマキリと戦わせるのだった。

ただの感想-橋を架けるじいさん-

※筒井康隆の『時をかける少女』のもじりです。

もし、初めてのラノベで、筒井康隆という存在を知らずに、ただラノベだからという理由でこれを読んだら、大変なことになりそうだ。

これが標準的なラノベなのかと思ってしまったら、後のラノベ読書に影響を及ぼしそうだ。もちろん、悪い意味で。

ただ、筒井康隆だもんな、と思えばどうってことはない。十分ラノベとして楽しめる。

まず、挿画がちゃんとかわいい。イラストは、『涼宮ハルヒ』とかのひとが書いているそうだ。きっと、人気のイラストレーターだろうに、やはり筒井康隆がラノベを書くということで、期待値が高かったのだろう、イラストも本気だ。

ラノベならではなのかな、と感じたのだが、挿画でかなりのネタバレになる。ぱらぱらとページをめくっていくと、美少女がカエルを持っていたり、これまた別の美少女が血に染まった新聞紙を胸元に抱えていたり、あるいは、カエルの顔が人の顔になっていたり。

これをネタバレと取るかどうかは、難しいところだ。最後の方の挿画では、ビアンカが胸元を銃のようなもので撃たれている絵がある。人面カエルと銃で撃たれることがどうつながるのか。ネタバレだと読む気を失せてしまう場合もあるが、これに関しては、つながりが気になる。

もちろん、戦略なのだろう。しかし、ラノベを読まなければわからなかった感覚だ。

内容に関していえば、最初の印象は「えろい」だ。まぁ、この辺は筒井康隆だから、と言えばなんとかなる。別に驚かなかった。

実をいうと、もっと深い入りして書きたかったが、今は無理だと感じている。というのも、筒井康隆自身が言っているのだけど、この小説は、ただエンタメとして読んでもいいし、メタラノベとして読んでもいいらしい。

僕には、ラノベが全く分からないから、メタな視点に立ってラノベを読むことは、今回はできなかった。

今思うと、巧妙だな、と思う。

ラノベばかり読んでいた人が、ラノベだからといって手を出したこの本で、筒井康隆の世界に引きずりこむことが出来る。そうなると、彼の本には、『文学部唯野教授』みたいに、学術要素の強いものもあるから、彼の世界に浸るということは、まぁ、そういうことになる。

逆に、ラノベを軽視していた読書家が、筒井だからといって読み始めると、「メタラノベとしても読めるぞ」と彼に挑発されることによって、メタラノベな読み方とは何かを知るために、ラノベを読んでいくことになる。僕はこちら側だ。

筒井康隆は、橋を2つかけた。ある種の2つの民族が喧嘩せずにわかり合うために。そして、帰りの橋は一本で十分だ。