雑誌『SWITCH』2014年10月号~2016年12月号(連載「オリオリ」第一回~第二十七回)に掲載されたエッセイから構成されるエッセイ集。スイッチ・パブリッシングから2019年2月28日に発行されたものを、3月7日に購入した。約1週間で手に入れて、翌8日に読了した。そしてこの記事は3月10日に書き終えている。
旅の醍醐味
なぜ我々は旅をするのだろうか。あるいは旅に出るのだろうか。旅自身はいったいどんなものを我々に与えてくれるのだろうか。我々は旅に出て、けっきょくのところ、どんなものを得て、帰ってくるのだろうか。著者の角田さんは旅先での体験をエッセイとして綴り、旅に出るほとんどの旅人が体験することになるであろう「ギャップ」について多く言及している。
ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんは『天涯3(シリーズ6巻)』にて、「旅の発端は夢だったとしても、旅で出会うのは現実である。だが、旅で出会うのが現実だったとしても、その旅を持続させるのは、やはり夢である」とコメント。旅をする人間にとって、現地で目にするものは、発見する喜びというよりも、落胆や裏切りのような性質のものかもしれない。そして、何度か旅をするうちに、旅そのものがもつそうした性格に、嫌気がさしてくるのではないだろうか。「もう二度と旅になんか出るまい」と。
とはいえ、我々は旅に出る。これといった明確な動機もなく。言い方を変えれば、「ただ旅に出たい」それだけで我々は旅に出ることができる。そしてやはりギャップを体験して、また元の場所に帰ってくる。遅かれ早かれ、帰ってくる。
かくして世界をめぐり歩く、長い長い歳月がはじまったのだった。それは到着と出発の歳月、空港の待合室で待機し、本をトランクに詰めてはとりだし、風変わりなブランドのタバコを吸い、見知らぬ国の言葉を片言でしゃべり、彼らのウイスキーやビールを飲む歳月だった。
沢木耕太郎『天涯3』より
旅先にはいったい何があるのだろう?果たして「旅」とは何か用事があって出掛けるものなのだろうか。いろいろなものを眺め、食べ、そしてさまざまな人々に出会う。旅の醍醐味とはいったい何であろうか。旅に関するエッセイはその答えのようなものを幾通りもみせてはくれるが、ではいったいその中のどれが、「私」の旅の醍醐味なのだろう。それはやはり自分の足で旅に出てみないことには分からないと思う。旅の醍醐味……誰かにとっては地酒を飲み続けることかもしれない、また誰かにとってはその土地の女と寝ることかもしれない。いずれにしても、やはり旅に出てみないことには分からないのだ。エッセイに、どれだけのことが書かれていても、それは所詮誰かのエッセイなのだ。旅はなぞれない。
「なぜ旅に出るのか」ということはさておき、物語をどう読むのか、というのは個人の問題である。あるエッセイを読むことに対して、格別な想いで臨む読者もいれば、それほど力まずにさらっと読む読者もいることだろう。哲学的な問いを好む者もいれば、それを好まない者もいるはずだ。そういう所でいえば、エッセイには「当たり」と「はずれ」がある。この作品はどちらかといえば、ストレートな哲学的問いがあるわけではないし、前者の人間にとっては「はずれ」かもしれない。しかし、(多くのエッセイがそうであるように)著者独自の視点や、旅の楽しみ方あるいは関わり方という点で、ふむふむと納得する節もたしかにあるのだ。どこに焦点を絞り、どこをぼやかすのか、というのも、作品を読む上での1つの楽しみ方ではないだろうか。ちょうどカメラのレンズのように。