以前、僕がポール・オースターの『幽霊たち』について書いた時、最後に、『ムーン・パレス』は何冊か読んだ後にしてからがいい、みたいなことを書いた。
で、『ムーン・パレス』の「訳者あとがき」のところで、柴田元幸さんが同じようなことを書いていた。
同じオースターの作品でも、たとえば『幽霊たち』が、物語への欲望を喚起しつつそれをはぐらかすことを基調とする(要するに、何かが起こりそうで起こらない)小説だとすれば、この『ムーン・パレス』はむしろ逆に、物語への欲望を目いっぱい満たしてくれる一作である。
読むべき順番を書いているわけではなく、それぞれの小説の特徴を書いているだけだけど、僕としては、(前にも書いたように)『幽霊たち』で目いっぱい愛撫してもらって、『ムーン・パレス』で、行き場を失った物語への欲望を解放してあげるのがいいと思う。
だけど、『ムーン・パレス』を読んだからと言って、すべてが解決するわけではない、ということは付け加えなければいけないと思う。つまり、物語への欲望は満たされても、「存在の確かさへの欲望」は依然としてさまよい続けるしかない。
『幽霊たち』は、そのタイトルからしてすでに存在が不確かなわけだけど、物語の内容自体も、とことん存在の確かさから読者を遠ざける。そのことが端的に表れているのは、『幽霊たち』の登場人物が、ブルーとかホワイトとか、すべて色の名前になっていることだ。
そして、『幽霊たち』で存在の確かさへの欲望を掻き立てられても、『ムーン・パレス』がそれを埋め合わせてくれることはない。オースターの作品ではなぜか、実在への回路がショートしてしまっている。だから、読み終えたことへの満足感というのは減じてしまう。
3つの頂点を奪われた三角形のように、あるいは、シニフィエを失ったシニフィアンのように、そこにあるのは硬度を失った実在である(正確には実在できないくなる)。これは、ゲシュタルトが崩壊することにも似ている。
ゲシュタルト崩壊と言えるかどうかは怪しいが、僕は時々、トイレで用を済ませながら言いようのない不安に襲われることがある。トイレットペーパーで汚れた尻を拭こうとした瞬間、「はて、このやり方であっていただろうか」、と感じることも珍しくない。しかし、それはほんの一瞬だ。もしかしたら誰でもあることで、そんなの当たり前だろ、と言われるかもしれない(あとから友人に話してみたら、そんな経験はない、と一蹴された。仮に僕が正常なのだとしたら、彼らは少し異常なのかもしれない)。
ラカンと『ムーン・パレス』
ここでは、『ムーン・パレス』をラカンと結びつけながら、少しだけ内容に触れたいと思う。
ラカンが精神病の人に共通の特徴として考えているのは、「父の名」の排除である。
どういうことか。まず、ラカンな発想の1つに「象徴界」というものがある。簡単にいうと言葉(シニフィアン)の秩序のことであるが、つまりは、僕らが普段生活している、意味が充満した構造化された世界である。そして、ラカンが構造主義者たるゆえんは、この構造的な象徴界が生成される源泉である中心点に、「父の名(否)」を据えているところにある。
「父の名」あるいは「父の否」とが並置されるのは、フランス語で「non(否)」と「nom(名)」が同じ音になることから、ラカンがこの2つをかけているからで、「父の名(否)」とは、子が母親の乳房から切り離されるという作用を意味する。
この「父の名」こそが、いわば原初のシニフィアンであり、象徴界の秩序を根本のところで支えるものとなる。ラカンにとって精神病は、別の何かで覆い隠してきた「父の名」の欠如が、人生の様々な場面で露わになることによって発症するものである。それは例えば、自分が親になるときなどのように、記憶の中の「父」を参照しなければいけなくなる場面である。このとき、「父の名」を喪失しているものは、「父」を参照しようと覆いをはがしたとき、そこにあるのはただの穴であることを知る。このことは同時に、象徴界の秩序がつなぎ目を失うことも意味する。
主人公は生まれながらにして父がいなかった。母親は一人で彼を育てた。だから「父の名」も失われている。母親も彼がまだ大きくならないうちに亡くなってしまう。そこで彼が身寄りにしたのは、母方の叔父だった。叔父との関係性は、ジョークにあふれていた。ジョーク、つまりは何かをズラすことであり、何かを覆い隠すこと(ときには覆いをはがすこともある)でもある。叔父とのジョークに満ちた関係性は、失われた「父の名」を覆い隠すことであったのかもしれない。そして彼が特にこだわっていたのは自分の名前だった。
彼は子どものころに、周りの子どもに自分の名前で遊ばれる経験をする。彼の名は、マーコ・スタンリー・フォッグ。フォッグという名前は、巡り巡ってフロッグ(蛙)になったり、マーコがシット・フェイス(うんこ顔)になったり―どうやってうんこ顔になったのかは読めばわかる―と、散々な目に合っている。そして彼は、「自分の名がこの上なく脆いものなんだと」思い知った。
しかし、伯父さんは巧妙な手つきで、彼の名前をからかいの洪水から守るための堤を築く。これも、ある種のジョークのなせる技だ。彼によれば「伯父さんは、ほかの人が何も思わないようなところに意味を見つけ出」し、「その意味を巧みに操り、一種の秘密の支柱を築き上げる」人だった。
しかし、これはまだほんの10ページほどまでの内容だ。(僕が思うに)物語は、主人公が大学生の時に伯父さんが亡くなることで始まる。今回は、僕が始まりだと思うその場面まで紹介しよう。
主人公が一人暮らしを始めるとき、伯父さんは彼にいろんなものを与えた。大部を占めるのが、1000冊以上にも及ぶ本だった。彼は一人暮らしを始めても、テーブルなどの家具は買わなかった。すべて、本の入った段ボールで誂えた。彼はそれを「虚構の家具」と呼んでいる。まさにジョーク。しかし、伯父さんが亡くなると、ある決定的な行為(と僕が思う)を始める。それは、箱の本を片っ端から読み始めることだ。つまりそれは、「虚構の家具」を切り崩すことでもある。
ジョークを生きるのを止めること。それは、彼の人生が別の段階に入ることを意味する。そうして物語は、起動音を立て始める。
これ以上の内容は、実際に本を読んでもらいたい。
存在の肌触り
「存在」というのものが確かに存在する(実在する)のだとしたら、どんな感触がするのだろうか。
僕は『ムーン・パレス』をよんで、「存在」を感じられるのは、「存在」の実在を疑った時なのではないかと思った。
だから、冒頭でいったような場面、つまり、尻を拭く行為の正しさが揺さぶられたその瞬間こそがチャンスなのかもしれない。「物自体」と象徴界の重なりが、一瞬ぶれるそのタイミングこそ、「存在」の肌触りを確かめる格好のチャンスである。
あまりにも抽象的過ぎたけど、『ムーン・パレス』を読んでいる間、そういう経験がきっと訪れると思う。