ポール・オースター『幽霊たち』〜境界のない世界〜 - 文学ナビ
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ポール・オースター『幽霊たち』〜境界のない世界〜

『幽霊たち』を読む場所は全て、水のあるところだった。(以下余談、『幽霊たち』の内容とは一切関係ない)

湯船に入りながら読み始めて、鯉がかかるの待ちながら読み終えた。

お風呂の中では、天井に張り巡らされた水滴が近場の水滴とくっつき、自分の重みに耐えられなくなって床に落ちてくる。それらが、しょっちゅう僕が開いているページに落ちてくる。それにしても、惨めだな、と思う。大きくなったはいいが、そのせいで自らを破壊してしまう水滴は、アニメによく出てくる、相手の力を自分のものとして吸収できるけど、過度な吸収で飽和して自らを破滅させるキャラクターみたいだ。ただ、水滴たちの場合は、最後の最後で僕の本を濡らして帰るから、それだけマシかもしれないが。

ところで、書きながら思ったけど、こういったアニメのキャラクターから、「他者を自己の内に取り込み過ぎると自己を破滅させる」、みたいな一般化もできなくもないんじゃないか。自己と他者の境界の消滅。そしてこれ、以外に『幽霊たち』の話とも関わってきそうだ。

で、釣りと読書について。

釣りをしながら本を読むのも、とても集中できるから気に入っている。いや、別に釣りはしなくていいとは思う。釣りをしない方が実際集中できると思う。

竿の先端近くに鈴をつけてかかるのを待つのだけど、時々、その鈴が小刻みに延々と鳴り続けることがある。もちろん、魚がかかる兆候だから、いい兆候だ。魚が針に引っかかって、ぐい、と引っ張るのを待つあの時間はなんとも言えない。しかし、かかる瞬間までがやたらと長い時がある。恋の駆け引きみたいに。気があるのでは、と思い思い、結局こちらがわの勘違いでした、みたいなことが、釣りにもある。まぁ、経験が足りないだけなのだろうが。いずれにせよ、釣れるか釣れないかをそわそわと待つ時間も、それが長すぎると読書に支障が出るわけだ。だから、何だかんだ釣りはせずに、ただ静かな川べりで読書をするのがいい。恋も同じだ。恋をせずにただ気軽に好意を抱いている程度が、ちょうどいい。

で、オチだけど、

『幽霊たち』を読み終えると、それを見計らったように魚がかかった。釣れたのは、「コイ」でした。

たまには、こういうあまりにもあからさまなものを書いてみたくもなる。恋なんて持ち出したのも、もちろんこのため。くだらないギャグも、たまには吐き出さないと毒になる。

本当にどうでもいいことだけど、これも書かないと毒になりそうなので。

いま、「毒」って言葉をつかったせいで、「どくしょ」と打ち込むと、変換の最優先候補が「毒しょ」になってしまった。いや、いくら「毒」とつかったところで、「毒しょ」なんて使わないでしょ。使うとしたら、「それ『毒っしょ!!』」くらいなものだ。これすらも『毒しょ』ではない。

余談が長すぎた。

『幽霊たち』とそこにある問題たち

『幽霊たち』のあらすじを書くのは、そう難しい事ではない。と思う。構図はシンプルだからだ。

「と思う」というのは、もちろん僕が凡人の域を出ないからで、強く断定することができないからだ。凡人の特徴は、物事の奥深さを理解できず、その表層だけをみてわかった気になることだ。「深淵を覗く時、深淵もまたあなたを覗いている」ってドイツのどっかのにーちゃんがいってたけど、凡人は深淵がこちらを覗いている目があることなど知る由も無いから、飄々としていられる。

だけど、深淵を覗こうとする非凡な人たちは、覗いた先に見つめ返す眼光があることを知っているから、物事をわかっている、などとは容易には口にだせない。そんなこと言ったら、深淵の方から、「本当か?」という声が聞こえてくる。そのおぞましさを知っているからこそ、謙虚なのだろう。それは、信仰を持つものが、神に対する時の態度と似ているのかもしれない。

『幽霊たち』と色たち

あらすじに入ろう。

本書の主人公は、ブルーという名の探偵だ。『幽霊たち』の登場人物たちは、全て色で呼ばれる。コードネームとかではなく、実際にその色の名前を持った人間として描かれる。伊井直行が文章を寄せているが、その中で、色についての言及があった。

「彼らは、その名前の故に抽象的な存在たるを得ないのである。というのも、「青い空」や「白い雲」「黒い夜の闇」は実在しても、「青」「白」「黒」という実体はどこにも存在しないのだから。登場人物に色の名前を与え、現在形をつかった透明度の高い文章を駆使して、作者は小説の中で彼らが実在するのを拒否している。」

ポール・オースター『幽霊たち』p.136

明快である。色はそれ自体では存在し得ない。それは形容詞のようでもあって、修飾される名詞の存在によって、自身(形容詞)の存在が保証される。このことも重要だが、さらに僕は次のことも付け加えたい。

伊井が言及しているのは、色と色が付与される対象物との関係性のことであり、色の存在条件がその対象物によって担保されていることを述べている。しかし、色というのは、言うまでもなく差異の体系によってもその存在条件が問われなければならない。「黒」が人々に「黒」という表象を持たれるためには、「黒」ではないなにか、例えば「青」という存在が必要である。もちろんその逆も然りだ。これは当然、ソシュールを念頭に置いている。

伊井が述べているのを堅苦しく、例えば色の「対外的存在要件」とするならば、僕が言っているのは、「内在的存在要件(あるいは、対内的存在要件)」である。そして、この2つの区別は、『幽霊たち』における解釈の方向を、それぞれに対応する2つの方向に方向付けるのである。色の「対外的存在要件」は、小説における登場人物の外から、登場人物の存在の仕方を規定する。一方で色の「内在的存在要件」は、登場人物同士の内在的な関係性を重視する解釈を生み出すのである。

問題の1つは以上のようなものだ。

『幽霊たち』といくつかの物語たち

では、先に進もう。

『幽霊たち』の冒頭は、こうだ。ここにおおよそのことが書かれている。

 まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。ブラウンがブルーに仕事を教え、コツを伝授し、ブラウンが年老いたとき、ブルーが後を継いだのだ。物語はそのようにしてはじまる。舞台はニューヨーク、時代は現代、この二点は最後まで変わらない。ブルーは毎日事務所へ行き、デスクの前に座って、何かが起こるのを待つ。長い間何も起こらない。やがてホワイトという男がドアを開けて入ってくる。物語はそのようにして始まる。」

仕事はきわめて簡単に思える。ホワイトはブルーにこう依頼する。ブラックという名の男を見張り、必要がなくなるまで続けてくれ、と。

同上、p.5

気づいただろうか?なんて、上から目線で言っているけど、僕も今気づいた事で、この冒頭の文章は物語が2つの起点を持っていることを宣言している。「物語はそのようにしてはじまる」という文章が2つ出てくる。大まかに2通りの解釈ができる。

1つは、この小説には物語が2つある、ということ。ブルーという人物を起点に、2つの物語が派生していると考えることができる。2つには、1つの物語が、全く別様の2つの起点を持っているという解釈。それぞれ源流を持つ2つの川が合流して、1つの大きな川ができるみたいに、軸となる物語が、2つの話が合流することによってできているという解釈だ。

この問題について僕は何も言わないし、何も言えない。こじつけならできるかもしれないけど、それが本質的なのかこじつけなのかどうかの判断ができないから。

『幽霊たち』と境界が失われた物語

ではここからは、物語の大まかな展開を追っていこう。

ブルーがホワイトから依頼された仕事は、ブラックを「必要がなくなるまで」(この言葉が厄介)見張り続けることだった。ブルーの見立てでは、明らかにホワイトは変装していた。

ブルーはすぐに仕事に取り掛かった。ブラックを見張るための部屋は、ホワイトが用意していたのでそちらに移り、ブルーには、結婚を約束していた相手がいたのだが、彼女にも当分会えないことを伝えた。

ホワイトは、見張りと一緒に、ブラックについての週に一回の報告を依頼した。「これこれの私書箱に宛てて、タイプで二部ずつ、1ページ何行、1行何字で」。こうして、ブルーは、ブラックという人物を長いこと監視することになった。

はじめ、ブルーは真摯に仕事に取り組んだ。片時もブラックから目を離さず、主観を排した正確な報告をつくった。だが、ある時から違和感を覚え始める。ブラックはあまりにも平凡な日常を送っていた。なにかを「書き、読み、近所で買い物をし、郵便局に行き、時おり短い散歩にでかける」。報告をホワイトに送ってもなんの音沙汰もなし。徐々に疑心暗鬼に陥っていく。ブラックがだれで、ホワイトは何者かを、延々と夢想し続ける。孤独を紛らわすために、師のブラウンに今の状況を綴った手紙を送るも、ブルーをねぎらうような期待した反応はなく失望する。彼は、彼の自由は、ブラックの行動とホワイトによってがっちりの塗り固められているように感じる。そしてある日、道で偶然「未来のミセス・ブルー」が、見知らぬ男と腕を組んで歩いているところに出くわし、彼らの関係は戻らぬものとなってしまった。

猜疑心に駆られたブルーは、日に日に行動が大胆になっていく。そして、様々に変装をしてブラックに直接接触した。ある時、こんな話を聞かされた。それは、ブラックも誰かを監視している、と。聞くと、それはブルーの陥っている状況と酷似していた。ここで物語全体の雰囲気がわかるその場面を、少し長いが引用しておこう。

  そういうのはみんな作り話です、とブラックは言う。現実の探偵の仕事というのは、ずいぶん退屈なものです。

まぁどんな仕事にも決まり切った日課はありますからね、とブルーは続ける。でもあなたの場合は少なくとも、コツコツ頑張っていれば、いずれ血湧き肉躍る冒険にたどり着くわけでしょ。

まぁそういう時もあるしそうでないときもあります。そうでないときの方がずっと多いですよ。たとえばいま私が抱えている仕事だ。もう一年以上やっていますが、とにかく恐ろしく退屈です。あんまり退屈なんで、このままじゃ頭がおかしくなっちまうんじゃないかと時々思うくらいです。

そりゃまたどういうわけで?

まぁ聞いてください。私の仕事は、ある人物を見張ることなんです。私の見る限りべつに重要人物でもなんでもない、ただの誰かです。そして毎週一回、その男に関する報告を送ることなんです。それだけです。この男の見張り、それについて報告を書く。あとはなに1つすることがないんです。

それがどうしてそんなにひどい仕事なんです?

だってあなた、そいつはね、なにもしないんですよ。一日中机の前に座って、ものを書いているだけなんです。気が変になっちまいますよ、こっちは。

一芝居打っているかもしれないじゃないですか。ほら、さんざん油断させておいて、そのうち一気に行動に出る、とか。

私もはじめはそう思いました。でも今じゃ確信しています。絶対に、なにも起こりゃしないんだ、とね。直感でわかるんです、これは。
(中略–ブラックのセリフ)いまじゃ自分についてより、奴についての方が詳しいくらいです。奴のことを思い浮かべるだけでいいんです。そうすりゃいま奴がどこでなにをしているか、たとどころにわかるんです。何から何まで分かっちまう。もう目を閉じたって見張っていられるんです。

いまその男がどこにいるか、わかりますか?

家ですよ。位置もと同じだ。部屋で坐って書き物をしている。

何を書いているんです?

絶対とは言えませんがね、かなりの確信はあります。きっと自分のことを書いているんですよ。我が人生の物語。それ以外に考えられません。ほかに何を当てはめても不自然だ。

同上、p91~93

この会話は、物語が終局に入る直前に交わされた。この小説全体に対して言えることだが、色の名前がついた登場人物たちの会話は、鉤括弧抜きで行われる。

これは、おそらく先の伊井の引用に書かれているような実体の非存在を、そして、色の内在的存在要件、つまり彼らが自分自身のみで存在することはできず、ただ差異の体系としてあることを強調するためだと思われる。あるいは物語に即してこう言ってもいいかもしれない。すなわち、ブルーはブラックと完全に調和していたのだった、だからこそ、変装したブルーと、ブルーに見張られているブラックとの会話には境界線が存在しない。そして、境界を作り出す鉤括弧も必要ない。

さて、ブルーがブラックから聞いた話は、こうだった。ブラックが見張っている誰かは、日がな、何か書き物をして過ごしていた。そしてブラックは、その男のことを情報として何一つ知らないにもかかわらず、その知らない誰かを完全に知っているという。そう断言するブラックによれば、その誰かは、「我が人生の物語」を書いているらしい。

このことを踏まえた上で、物語は終盤に向かう。我慢に限界をきたし、ブルーはブラックの部屋に押しかける。詳細はあえて省くが(読んでほしいので)、そのブラックの部屋で、彼はブラックがいつも書いていたものを見つける。

彼はその物語を読む。はじめから終わりまで、一言もおろそかにせず読み通す。(中略)俺はその物語を知っていたのだ。

同上、p121

物語の最後、語り手によってブルーのその後が示唆される。「そう、彼は中国へ行った、そういうことにしておこう。いまやそのときがきたからだ。ブルーは椅子から立ちあがり、帽子をかぶり、ドアから外に出ていく。この瞬間からあとのことは、我々は何ひとつ知らない」と。

この物語は、一見すると推理小説のようだが、おそらくそうではない。いや、あえて言うならば、オースターによる、人間の内面についての推理小説なんかもしれない。この小説全体を貫くイメージは、「自己と他者との関係性から見たときの自己」、を見つめる、というものだ。しかし、自己と他者というような、主観と客観の二項対立を彷彿とさせるような言葉遣いは避けるべきなのかもしれない。なぜなら、再三述べているように、この小説には、実体がない。ただ差異しかない。変わらないものといえば、冒頭で引用したように、「舞台はニューヨーク、時代は現代」ということ、ただそのことのみだ。

ポール・オースターと僕

いま、ポール・オースターの『ムーン・パレス』を読んでいる。その一文一文にしびれているところだ。

『ムーン・パレス』は、オースターの代表作と呼ばれているけれど、僕としては、最初にこれを読まなくてよかったと思っている。もちろんいい意味で。

僕がはじめに読んだオースターの作品は、『ガラスの街』だ。1947年生まれの彼は、85年から86年にかけて、ニューヨーク三部作と言われる、『ガラスの街』、『幽霊たち』、『鍵のかかった部屋』の3作品を上梓したそうな。そんなこととはつゆ知らず、僕はそのうちの第1部作、第2部作を順番通りに読んでいた。次は『鍵のかかった部屋』にすすむのが常套なのだろうが、積ん読してあった『ムーン・パレス』を読んでいる。

『ガラスの街』、『幽霊たち』は比較的薄い本だったので、ただそれが理由で手を出した。『幽霊たち』に至っては、全編で120ページだからすんなり読める。しかし、なんとなく物足りなさを感じていた。とても滋味深い本だったが、どこかにもどかしさを感じていた。だからこそ、棚に鎮座していた『ムーン・パレス』を取り出した。まだ40ページほどしか読んでいないが、そこには、わだかまっていたもどかしさを取り除いてくれる気配があった。

この感覚は、はじめに『ムーン・パレス』を読んでいたのでは得られない感覚だと思う。さしずめ、『幽霊たち』まで読んで愛撫を受けて、『ムーン・パレス』で、さぁ本番、といった感じだ。だから、まだオースターを読んだことがない人には、まず、三部作から取り掛かることをおすすめする。