私の電車体験 - 文学ナビ
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私の電車体験

東京にきて1ヶ月が過ぎた。

沖縄に居た頃とはちがい、電車で通勤する毎日。慣れてはきている。

とはいえ、「電車のない」沖縄からはるばる飛んできた私にとって、電車体験は新鮮なものだ。

少し気を緩めれば、電車内のあらゆる広告に目が泳いでしまう。たとえば「地図に残る仕事」という広告。

もちろんそのような受け取り方をしてしまうのは私の意地の悪さに由来しているのだけれど、「地図に残る仕事(べつに”あなた”がやってもいいし、やらなくても、”こちら側”は大して困ることはないんだよね。一応。んまあ、それでもよかったら…)」やりませんか?といっているように聞こえる。

当然のことながら、そんな捻(ひね)くれた広告ではない。

地図に残る上に、履歴書にも残る。誰かの役に立つ、しっかりとした、意義のある仕事である。

新しい広告が掲載されるたびに、そんなことばかり電車内で考えていると、車窓に映る自分の顔がとんでもないことになっていたりする。

しまった……動揺を隠す私と、相変わらずの沈黙。

もちろん誰からの応答もなく、ニコリともニヤリともしない顔だらけ。あるのは画面に食い入る女子高生と単行本のおじさん、そして騒がしい無数の広告。

よく考えてみれば、とてもシュールな空間ではないか。電車に乗る誰もが広告の対象であるにもかかわらず、誰も全く関係のない存在にみえてくる。

「なにをいまさら……」と思うかもしれないが、これは私にとって新鮮な体験なのだ。

そもそも移動中の空間で、知らない人々に挟まれて運ばれる経験がなかったのだ。そう思ってしまうのも、無理のないことだろう。

気になることは他にもある。

繰り返すようで、いささか申し訳ない気持ちもするが、やはり電車内の沈黙は不思議で仕方がない。

大声で議論が始まっては、さすがの田舎者も閉口せざるを得ないが、多少の会話やジェスチャーがあってもいいのではないか。そこまで静かに務める必要があるのだろうか。他者への配慮も「いきすぎ」では?と思ってしまう。

あの沈黙の中では深呼吸ひとつ難しいのだ。規則的な呼吸にさえ何らかの変化が必要な気がして、わざと次の呼吸を遅らせてみたりする。

「都会の息苦しさ」とはこのことなのだろうか?

しかし周知のとおり、完全に無音であるわけではない。電車がレールを噛む音、到着を伝えるアナウンス、男子中学生の会話や、下町のおじちゃんが友人と話す世間話。私が気にし過ぎているだけなのかもしれない。

ついこのあいだ、大学時代の友人と終電ぎりぎりまで語り合う機会があった。その席ではお酒も入り、お互いの卒業論文にこめた想いや、直近で読んだ文学作品の批評に花が咲いた。大学時代に知り合った友人との会話は面白い。社会人ともなれば「そういう話」をする機会も減ってくるようだ。

「帰りは何線?」このフレーズも私にとっては新鮮である。

「○○線ですよ」「そうか、途中まで一緒に行こう」

そんなふうにして、街灯が3本ばかり立った夜道を歩く。次はあそこの店に行こう、次に会う時までにはこの作品を読んでおこう、居酒屋を出てもなお話は尽きない。

駅の改札をゆらゆらと通り抜け、ぱたぱたと階段を降りていく。構内から吹き上げる風にワインの香りが混じる。

ちょうど最終の電車が来たようだ。何食わぬ顔をして電車に乗る。慣れたものである。

「……」つり革に掴まり、目を閉じる。

しばらく酔いのまわり具合を確かめていると、何やら様子がおかしいことに気付く。

電車にはたしかに乗った、しかしなんという喧騒っぷりだろう。

これが「都会の喧騒」なのか?

立つもの座るもの、方向かまわず喋り倒している。

これには無数の広告もお手上げではないか。

「終電ってこんな感じなんですね」

「うん。いつものことだよ」

私の電車体験は始まったばかりである。