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23歳の僕が書く「死について」

ある時期から、浜辺に流れ着いた流木のように、「死」が僕の意識の中に住み着き始めた。そしてまた流木のように、23歳の僕には「死」が意味のある形を持っているわけではない。

僕が「死」を意識するようになった―と言っても、自分が死ぬことについて考えているわけではなく、そういう事象について意識するようになった―のは、ヨーロッパへ一人旅をすることを決めたあたりからである。21歳ごろだろうか。その頃は、盛んにヨーロッパでのテロが報じられていた。だからだったと思う。僕も十分に死ぬ可能性はあるのだな、と思った。

ヨーロッパに行く直前の1か月間は岩手の実家で過ごしていた。ある日、携帯のサイレンがけたたましくなりだした。地震ではない。北朝鮮のミサイルだった。東北、あるいは北海道の上空を北朝鮮のミサイルが通過する、ということだった。しばらく息を忘れていたと思う。そして、誰の死ももたらさずに事態が収束すると、沖縄のことを思った(この時、僕は沖縄の大学に通っていた)。今回はたまたま日本の北側にミサイルが飛ばされた。飛ばされたけど…。ありきたりだが、やはり基地のある沖縄が何よりも危険だ。アメリカ本土よりも、沖縄の中の「アメリカ」の方が近い。それまでは頭では分かっていた。しかし、この時からはそこに明確に「死」の観念が入り込むようになった。危険だ、とは、当たり前だが、「死」が伴うから危険だ、ということだ。しかし、その意味を身をもって感じるためには、僕は岩手であのかまびすしい警報を聞かなければならなかった。そして、その時たまたま岩手いられたことを幸運なことだと今は感じている。

そういう経緯があったから、僕は「死」の意識を携えて日本を離れた。それはあまりにも大きい荷物だった。

この一人旅は僕にとっての初めての海外だった。それに加えて、僕は基本的にとても臆病だから、はじめはまともに外食もできなかった。向こうのルール(あるいはマナー)を犯してしまうのではないかと、びくびくしていた日々だった。旅の恥をかき捨てられなかった。買い物するのにも、僕にとっては膨大な勇気がいる行為だったので、ある日に買った、こぶし大のパンが何個か入ったやつだけで、2日ほど絶えしのぐこともあった。節約にはなったが、僕は自分の臆病さに愕然としたものだ。

しかし、さすがにしばらくすると慣れてくるものだ。1か月もすると、びくついてはいるものの、行動範囲は広くなった。そんな矢先のことだった。その時は日も沈みかけたところだった。ローマのアッピア街道を一人歩いていると、向こう側から男が3人歩いてくるのが見えた。3人は自転車に乗り、横を通り過ぎようとする僕の方に寄ってきて、「時間わかるか」と聞いてきた。時計をしていなかったので、僕はポケットに入れていたスマホを取りだした。そして、時間を確認しようと顔を落としてスマホを見ている僕の顔に、男が殴りかかってきた。それからは、あっという間の出来事で、3人がかりで僕を囲んで蹴る殴るを続けると、バックを引きはがして逃げていった。

その後の2か月間も何とか旅は続けられた。しかし、今まで以上に、「死」というものの重みは増すばかりだった。

日本に帰ってきても、「死」が僕の肩をたたいてくる。帰国後、2週間ほど実家で過ごしたあと、年明け沖縄に戻った。沖縄に着いて1週間後に、珍しく兄から電話が来た。ばあちゃんが死んだという連絡だった。すぐに岩手に戻った。葬儀場から火葬場までの車に棺を乗せる作業をみながら、僕は涙をこぼした。

兄から連絡が来て、岩手に戻る時の那覇空港で、空港にサイレンが鳴り響いた。火事が起こったらしかった。僕はまた息を忘れていた。「死ぬ」。しかし、結局のところそれはすぐに誤報だということが分かった。僕は身軽になった祖母が沖縄まで来ていたずらをしたのだろうかと、とりあえずそこに意味を付け加えた。そうすることで、気持ちが幾分和らいだ。いろんな感情に整理がついた気がした。

祖母の死後一年後、それは、祖母の命日の1週間後のことだった。

僕は年末年始を岩手で過ごしていた。岩手に戻る前、(詳しくは書かないが)友人が体験した死を聞いていたから、僕は甥っ子の誕生と合わせて、そのことについて思いを巡らせていた。というのも、この時、兄の奥さんは妊娠していて、地元の北海道に帰っていた。予定日は12月31日。僕は吉報を岩手で聞けるものと期待していた。しかし、なかなか赤ちゃんは出てこなかった。大学の授業もあるから、僕はしぶしぶ沖縄に戻った。

飛行機が那覇空港に着陸して、スマホを使って良いとのアナウンスが入ったので、僕は機内モードを切った。いつもなら、誰かしらから、「そろそろ着いた?」などのLINEが入っている。しかし、この時はいつもとは全く違う連絡だった。「じいちゃんが死んじゃった」。母からのLINEだった。僕は翌日には、東京行きの飛行機に乗った。沖縄に1泊してすぐに岩手に戻るということで、僕は岩手と沖縄がとても近いものに感じた。

祖父が亡くなって、葬儀の準備をしている頃に兄の子どもが生まれた。僕はおじさんになった。葬儀での弔辞はもちろんに兄の役割だった。そして当然のことに、じいちゃんのひ孫が生まれたことを報告だった。祖父の死を一番口惜しく思ったのは兄なのかもしれない。自分の子ども見せたかっただろうと思う。しかし、祖父からしたら、この世への未練を残す前に行ってしまいたかったのだろうか。ひ孫のことは、祖母と一緒に見守りたかったのだろうか。祖母の死後、じいちゃんは、ベッドから見える庭を眺めるだけの毎日だった。すごく景色がいいわけではない。物干し竿がかかり、時に丁寧に手入れされているわけでもなく、庭の向こうの景色も雑多な樹々で隠されていた。だが、じいちゃんが見るものはもう、そこしかなかった。隣には、もう祖母はいなかった。

実は、祖父の死と並行して、もう一つの死が起こっていた。

岩手に戻って、祖父の葬儀を準備をしている頃、ゼミの先生から電話が入って来た。ゼミ生の女の子が亡くなったという連絡だった。なにがなんだかわからなくなった。僕の周りで、生と死が錯綜して、目の前を覆っていた。また息を忘れていた。ただ、心臓の鼓動だけは激しく打ち付けていた。今でも整理はついていない。整理の付くことでもない。今こうして彼女の死について書きながら、僕の手は震えている。

電話の向こうから沈鬱な声が聞こえてくる。僕は、なにも質問できなかった。事故なのか、自殺なのか。あるいはそれ以外なのか。聞く勇気がなかった。そして、彼女の死から半年経った今も、知らない。僕はほんとに臆病だ。

大学を卒業して、岩手に戻ってきた。今度は、愛犬の運動神経が鈍ってきた。ご飯の量も減っている。彼女をなでるたびに、泣きそうになる。犬の寿命は、なぜこうも短いのだろうか。医者に死が近いとか言われているわけではない。長ければ後5年以上だって生きられる。だけど、これから彼女をなでる僕の手には、彼女の死に抵抗したがる虚しさ帯びることになる。

ここ数年、繰り返し押し寄せる津波のように、何度も何度も、僕は「死」に足を取られていた。自分に迫りくる「死」、家族の「死」、同世代の「死」、あるいは友人から聞いた「死」、そして愛犬に漂う「死」の気配。「死」について考えてるわけではない。ただ意識しているに過ぎない。今の僕にかけるのは、こうやってただ「死」を意識した瞬間を並べ立てることだけだ。今回書いたことの1つ1つについて、いつか「考え」なければいけない日が来るのだろうか、と思う。今はとりあえず、「死」をメモするだけにとどめる。

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