エトガル・ケレットはイスラエル出身のユダヤ人作家だ。彼の両親はともにホロコースト(ドイツ軍によるユダヤ人大量虐殺)を経験しており、エトガル・ケレットは一作家ではあるものの、日本ではまさに教科書のなかでしか出会えない類の人物である。歴史上の事象における知識は多くの日本人が持ち合わせているところであろうが、彼らがどんなものを食べ、どんなことを語り、そしてどのような想像力を駆使しているのか、具体的に例を挙げて話し合うほどではない。
知っているけれど知らない―そうしたことは世界中にたくさんあるのではないだろうか。日本で生活していては想像さえしない異国に生きる人々の生活を少し身近に感じること、それは読書の醍醐味でもある。もしあなたがユダヤ教徒で、ヘブライ語を母語とし、自らの故郷を追われ、今日も乾燥した土地を歩いているのだとすれば(あるいはいつ着弾するかも分からないミサイルの不安に怯えて)、あなたはいったい何を考えるのだろうか。明日の通勤ラッシュでどのつり革に掴まろうかを考えたり、新規開拓事業の企画案をどうプレゼンしていくかを考えたりすることはとりあえずなさそうである。
チーザス・クライスト
エトガル・ケレットの短編集『突然ノックの音が』のなかに「チーザスクライスト」という作品がある。本当にそのような名前のハンバーガーチェーンがあるかどうか、筆者の知るところではないが、その物語がとにかく面白い。
「暴力を与えられて死に瀕した人が死の直前にどのような言葉を発するか」という研究がアメリカのいくつかの異質な社会を対象に行われており(定かではないが)、「ファック」という言葉がダントツで多いことが分かった。そしてファックという言葉の後にはユー(you)といった言葉がくるのだそうだ。もちろん面白いというのはこの後からで、そうした研究がありながら、チーザス・クライスト・チーズバーガー・チェーンに通うジェレミーはそのような状況下でいったい何と言うだろうか、ということである。それは「チーズ抜きで」という言葉らしい。このあたりの自虐といおうか、同じユダヤに対する皮肉といおうか、そこがこの著者の作品を読むキーワードだったりする。
勘の良い読者には分かるかもしれないが少々説明が必要である。チーザスクライストはハンバーガーチェーンであり、メニューには当然ハンバーガーがずらりと並んでいる。しかしこのチーザスクライストは他の多くのチェーンとは違い、スタンダードメニューが「チーズバーガー」なのだ。あのパテとピクルス、少々のオニオンを加えた「ハンバーガー」はスタンダードメニューにはないのである。
ユダヤ教には肉と乳製品を同時に食してはならない、というカシュルートという決まりがあり、ジェレミーはそれを守っているのだ。したがって、チーザスクライストの店員はジェレミーを含め他のユダヤ教徒から「チーズ抜きのチーズバーガー」と注文せざるを得ない。さすがに毎日注文されてはバツがわるいということで、「スタンダードメニューにハンバーガーを追加してみてはどうか」とCEOに進言する……という話である。
色々な読み方はあるだろうが、アメリカを連想させる「チェーン」という言葉と俗語としての「ジーザスクライスト」が前提としてあり、ブラックユーモアたっぷりな物語が展開されている。読者には、毎日こりずに来店するユダヤ教徒が「チーズ抜きのチーズバーガー」と注文する度に反応に困るスタッフが想像できるのではないだろうか。日常のなかに宗教的なジョークが介在するという、日本ではあまり見聞きすることのない話なのである。こうしたジョークはやはり日本には少ない。
あーそれ分かる!
『The Seven Good Years(あの素晴らしき七年)』には、エトガル・ケレット本人の経験が時系列的に綴られている。「素晴らしき7年」とはいうものの、日々の生活は絶えず外界の脅威にさらされている。かつての旧友との再会も突然の空襲警報によって台無しにされることもあるのだ。私たち日本人にとっては、「過ぎたもの」としての戦争や内戦がある。しかし彼らにはまさに現実問題なのであり、私たちが日頃感じている難しい人間関係はもちろんのこと、その上に爆弾の恐怖がのしかかっているのだ。
あらゆる思念が止まってしまう爆弾の恐怖―それは坂口安吾が『白痴』のなかで語ったズドズドズドと近づく「爆弾の足」を彷彿させる。そのような状況下で著者は「あの素晴らしき」と言ってみせている。これを皮肉と取るべきか、あるいは台風の目のような一時的な休息だと取るべきなのか、すべての作品を読み切ったところで分かるものでもなさそうである。
ところで小見出しの「あーそれ分かる!」について気になっている方もいるのではないだろうか。特段小見出しにするほどのトピックでもない、と思っている人も多いかもしれないが、『Bombs Away(爆弾投下)』というエッセイがこの文章を書かせることになった。
エトガル・ケレットは、自分の子どもが生まれて4年という歳月、このあいだに二つの由々しき哲学的問題が表面化した、というのである。それが「この子はいったいお母さん似かしらそれともお父さん似かしら問題」と「この子は大きくなったら何になる問題」であった。明日ヘタすれば町を出ていくことになるかもしれない状況下でも、こうした由々しき哲学的問題が表面化するのは筆者にとってちょっと驚きだったのである。
作家というアドバンテージもあるのかもしれないが、彼らの日々の暮らしの中で浮上する問題とは思えなかったのだ。それよりはもっと大きな、あるいは怒りや憎しみのこもった近寄りがたい問題が表面化するのだと勝手に思っていたのである。しかし実際には息子の将来を想う父親の姿がそこにあったのだ。そうだと分かれば、国境を越えて、世間話でも出来そうな気がしてくるのではないだろうか。
最初の問題、「この子はいったいお母さん似かしらそれともお父さん似かしら」問題は、レヴの出生とともに、即座にかつ疑いの余地もなく解決された。レブはハンサムな子だったのだ。あるいは、ぼくの親愛なる妻がうまいこと言ったように、「この子があなたから受け継いだのは背中の毛だけね」だったのである。
エトガル・ケレット『あの素晴らしき7年』
そして二つ目の問題、「この子は大きくなったら何になる問題」では、タクシー運転手や法律関係の仕事、また高級官僚になるのではなかろうかという可能性が窺われるが、しばらくして、牛乳配達になることが確実とされた。なぜなら、毎朝5時半きっかりに起きて両親にも起床を要求する能力が無駄になってしまうから、である。なんと微笑ましい家族なんだろう!
皮肉から見えてくる世界
作家エトガル・ケレットにとって世界とは何であろうか。『Bird’s Eye(鳥の目で見る)』では、「アングリーバード」というゲームについて、怒れる鳥たちが奇妙な笑い声をあげる豚の子どもたちの家に体一つで飛び込んでいくことを、メタフォリカルな視点でとらえている。詳しくは『あの素晴らしき7年』を手にとって読んでいただきたいが、エトガル・ケレットの作品を読んでいると、宗教や思想の違いといったシリアスな話題には、ブラックユーモアの助けをかりて接近しやすくなることが分かる。ジョークだと分かり切っているのにも関わらず、核心をついた発言をそれとなくするのは雄弁な者の一つのテクニック(あるいはレトリック)なのかもしれない。真っ赤な嘘、というのはよく出来たレトリックだなと改めて感心したりする(余談)。実際、古典レトリックにおける「誇張法」には、言語そのものを成り立たせている信用関係(規定)をあからさまに誇張(違反)することによって、新たな関係を再構築する働きがあるとされている(『レトリック感覚』)。そうしたレトリックの視点に立つと、エトガル・ケレットという作家が果たす役割は大きいものに思える。とりわけシリアスな問題を抱える文化の人間として、より正確な形で後世に語り継がれていくのではないだろうか。『突然ノックの音が』や『あの素晴らしき7年』は紛れもなくその一つである。