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少年と川

ある人は言う。すべて見えていると。目の前に見えているものはすべて、紛れもなく見えているじゃないか。なにをとぼけたことを言っているんだ。ここにだって君が小学生の頃からプルメリアの花はあったじゃないか。君は単に覚えていないだけなんだ。

ある日ふと、人は故郷に帰りたくなる。これといった理由も定まらないまま。

そして、そこではしばしば似たような体験をする。「え、ここにこんなものあったっけ」

僕はよく近所の川に遊びにいった。幼少の頃から熱帯魚が大好きで、川にかかる橋の上から水面を眺めたり、魚の気持ちを知りたくて体を水に沈めたりした。そこには子どもが1人通れるほどの横穴があり、溜まった雨水が常にちょろちょろと流れ出るような穴だった。

子どもの時分には格好の探検コースで、薄暗い穴の中を奥に向かって進んでいった。進むにつれ空気は薄くなるようで、真夏にもかかわらずトンネルはひんやりしていたのを今でも覚えている。それでも懲りずに横穴を進むのは理由があった。しばらくいった先に地上へとつながる空間があったからである。そこには3つの雨水が合流し、一旦その水を受けるための水たまりがあった。

僕はよくその側に腰かけて、暗いトンネルと明るい陽光の差す水たまりの間で不思議な時間を過ごした。陽が雲間に隠れると、辺りは急に寒くなり、僕を不安な気持ちにさせた。また陽が差すと、心は不思議な安らぎを得た。

思い返せば記憶の側にはいつも川があった。陽光が乱反射する水面と熱帯魚、そして水があった。時は人を押し流し、記憶を残していく。抵抗し、留まることは死を意味しているのかもしれない。時間の重さと水の流れ、その間に佇む真夏の少年。

数日前、故郷の川を久しぶりに訪れた。僕はその横穴の水たまりを見たい気持ちにかられた。しかし僕は通り過ぎた。川があの日のまま、あの時のままだったからだ。またその横穴を通っていたら、きっと今度こそ帰ってこれない気がしたのである。

※このエッセイは加筆修正後、沖縄詩人会議『縄』36号に掲載させていただきました。

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