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中上健司「蝸牛」と傷を負うことについて

「水のにおいのまじった風を感じた。郵便局の建物を右におれて、そこからすぐS市の真中を断ちまわるように流れる川の堤に出た。六月の光は、濃く粘ねばしていた。何もかも粘ついてみえた」。

「蝸牛」『一九歳の地図』p.159

中上健司「蝸牛」という短編は、『一九歳の地図』(河出文庫)に収められている。上に掲げた文章は、「蝸牛」の冒頭の引用だ。これを読むや否や、物語の沼のようなまどろみに一気に引きずり込まれてしまう。そして、物語全体をドロッとした粘膜で包み込んでしまう効果を持っていることに、読み終わって気付かされる。そこから抜け出すのはなかなか大変だ。

ここでは「蝸牛」を通して、「傷を負うことへの憧憬」ということについて考えてみたい。人間の関係性はいろんなものに媒介されて成り立っている。血縁関係から趣味の集まりまで、そこに人間関係が築かれているとき、たいてい何かしら彼ら/彼女らをつなぐものが存在するはずである。

そして、その媒体が傷であってもよい。

傷を負った登場人物たち

以下は、ネタバレを含むので、その点をご了承願いたい。

主人公ひろしは、彼女である光子のアパートに居候している。光子には輝明という1人息子がおり、輝明の父親と光子はすでに別れている。読み進めていくとすぐに気がつくことだが、彼らの周りでは、傷(あるいは欠け)をもった人たちが存在感をもっている。「牛のひづめのような」右手の男に、光子の男の兄弟たちは、1人は首つり自殺、1人は白痴、そして1人は片足を失い義足をつけている。

さらに、物語が進む中で傷つく者たちも出てくる。ある日、輝明は「かさぶたができているため坊主頭にした」女の子と遊んでいた(あえて言えば、かさぶたも傷と捉えることもできる)。その遊びというのが、「白痴の子を縄でしばって、吹き矢の的」にする遊びであった。子どもの危険な遊びというのは、しばしば悲惨な結果を伴って、後味悪くおわるものだ。例にもれず、この時も輝明が放った吹き矢が白痴の子にあたってしまう。命中した額からは血が垂れ流れてきた。その子の泣き声を聞いて駆け付けた母親は、「この子は神さんの子やど」といい、その額から流れる血を自分の口で拭った。神の子の血を飲むという行為はとても印象的である-傷の共有。

物語が終盤に入る手前、ある日、主人公のひろしと輝明はアパートの裏の小山に出かける。ひろしが少し目を離していると、「輝明の、喉の奥で圧しつぶしたかん高い叫びが笹の茂みの中からきこえてきた」。その声を追って、輝明の傍へ駆け寄ると、左目が血でおおわれていた。笹のしんで左目をついたのだった。

そして最後の(物理的な)傷は、ひろしが光子の義足の兄の「いい方の足」を切りつけることによってできる傷である。物語は、この兄の義足でない足が傷つくことによって終わるのである。

傷を負う者たちと、傷つけるひろし。なぜ、ひろしは最後に他者を傷つけることが必要だったのか。それも、彼女である光子の、義足の兄を。

ひろしと傷を負うものたち

すでに傷を負っている者たちと、傷を負っていく者たち。ひろしの周りには、彼を縁取るようにいくつもの傷であふれていく。そうして、傷を負わないひろしは、たとえば日も落ちかける夕暮れ時、かくれんぼの鬼役を押し付けられたこどものように、身をよじるような不安に焦燥感を掻き立てられていった。それは、自分は誰とも関係できない、という不安であった。

そうした焦りが、光子の兄の足を切りつけるという行為につながったのではなかろうか。とはいえ、意図的に人に傷を負わせる行為の動機が、単なる「焦り」に還元できるのだろうか。確かに、浅はかなようにも思える。猟奇的な殺人などでないかぎり、人を切りつけるという行為は、深い憎しみのようなものに突き動かされていると考えた方が、理解しやすい。

しかし、人を切りつけるなどという行為を経験していない多くの人にとって、その行為の理由を、私たちの経験の範疇で語ることは、実に危うい。だから私たちは小説を読むのである。小説を読むことで、他者の経験を経験し、私たちの経験の範疇から飛び出すのである。そうして、来るべき危機に備えるのである。

閑話−小説という経験

さて、「蝸牛」を読むという経験は、すなわち、人を傷つけることによって他者と関係するという方策を取ってしまう人間の弱さを経験することである。そういったひろしの経験を、私たちは経験することが出来る。

ところで、そのような経験は仮想の経験である。仮想の経験は、現実の具体的で身体的な経験ではないという意味で、ある意味未来的である。未来とは、(「私」の実存的な相において捉えた場合)「死」と「生」という両極端の可能性の間に無限に広がっている可能性のことである。多くの可能性は茫漠たるものでそれが存在するかどうかは我々には知り得ない。我々に知りうる可能的な未来とは、一般的に習慣的なものである。明日もまた出勤するだろうし、ご飯を食べるだろう。無限に開かれた可能的な未来の中でも、このような習慣性によって立ち現れる未来は私たちに馴染み深いものである。

しかし、私たちが「未来」という含みのある言葉で想起するものは、そのような習慣的ななものではなく、残った多くの言語化し得ない未来のことではないだろうか。そのような未来こそが時に私たちを恐怖させる。もし、そのような不確定な未来を非習慣的な仕方で言語化することができたならば、私たちは幾分心を落ち着かせることができるのではないだろうか。そして、仮想的な経験を通じて未来の言語化を促す機能を持つものが小説である。

傷つけるひろし

それでは、なぜひろしは光子の兄を切りつけなければならなかったのか。ひろしの心の動きに沿ってみていこう。

ひろしは、自分が落ちるとこまで落ちたと感じたことはなかった。

ぼくは、これでおしまい、これから先はどんづまりで行き場がない、そういうところまで行ったためしがなかった。なんとなく袋小路から身をそらし、喫茶店のボーイ、クリーニング屋、足の悪い朝鮮人のおっちゃんと組んでパチンコの景品買いもした。…(中略)…それがどんづまりだとは感じられなかった。どんづまり、そんなものがあるのかどうか。

同上、p.176

そして、今後もうまくやっていけるだろうとの漠然とした余裕があった。

僕は自分が実にいい場所を手に入れていると思い、ほくそえんでいたのだった。それはぼくが世の中を渡り歩いてきて手に入れた才覚のたまものだった。いつでもいやになればこの女から逃げ出すこともできるし、心変わりがして、光子に自分の子どもを生ませてちゃんと世帯をもち、この市の人間になることもできる。

同上、p.190

しかし、そうした余裕は輝明の負傷によって打ち砕かれる。ひろしから連絡を受けて、遅れて駆け付けた光子は、ひろしの不注意をなじり、

「あんたのような甲斐性なしのぐうたら男など、今日限りで追い出したる。ひとつも真心みせん。土方に働きに行って一週間で尻割っても、馴れん仕事やさかと思て、輝明の守ろとわたしの夜のむかえだけしてくれたらええと思ってたのに、ななか時間になってもむかえに来へんし、輝明には大怪我させる。いらんいら、もう、今日かぎり、あんたはいらん」

同上、p.198

と、そういって、ひろしと関係を断った。とはいえ、ひろしにとってこのことはそれほど彼に強いダメージを与えることだろうか。嫌になったら光子のところから逃げてもいいと考えていたひろしにとって、光子の方から手綱を手放されたところで、結果は変わらないはずである。しかし、光子に追い出されたひろしは、その後、光子の義足の兄の家に向かい、彼を切りつけたのだった。

ここには一見、飛躍がある。私自身、読んでいて、この結末にはいささか狼狽えた。しかし、もちろんこの飛躍、あるいはこの落差にこそ意味があるのだし、こう言ってよければ、人を傷つける類の行為は常に飛躍が伴っているといえるだろう。そこで、そのような飛躍を引き起こした原因はどこにあったのかということが問われるわけだ。そこを考えなければ、意味がない。

とは言っても、冒頭部分ですでにその答えはある程度示している。最後にそこを軽く見ていこう。

なぜ切りつけたのか

ひろしが飛躍を起こした理由-それは端的に他者との関係性が途絶えることではなかろうか。と、いざ言葉にしてみると、なんとなく浅はかな気がしてくる。ある特定の場所で他者との関係が途絶えたところで、別の場所に移ればいいじゃないかと。確かにそれは一理ある。いじめに関する議論でもそういう言説はままある-別の学校に移ればいいだけではないか、と我が物顔でやさしさを振りまく。

そういう解決策(のようなもの)を自分の意見として提示して、そこで議論を断ち切ってしまう人が大半であろう。しかし、現実にそれを出来ずに死を選択するするものがいるのである。別の場所に移るという解決策ぐらい、自分でもきっと思いついていたにも関わらずだ-いや、「移りたい」と誰よりも強く願ったはずだ。強いて言うならば、彼/彼女はここじゃない世界という別の場所に移動したのかもしれない。

この世界は、私たちが思っているよりきっとずっと広いのだと思う。別の場所に移ればいいよ、という人はそう思って言っているのだろう。しかし同時に、世界は私たちが思っているより、肩をすぼめて生きなければいけないほどに、すごく狭いのかもしれない。新天地に移って「世界は広いな」と思った矢先に、その地できっと世界の狭さを思い知る。

結局、世界は広いのか狭いのか死ぬまでわからない気がする。世界とは、そういう尺度で測れるものではないのだろう。なぜなら、私にとって世界は一様にしか現れえないのだから。比較などできるようなものではないのだから。

小説の重要な設定の1つをまだ話していなかった。

ひろしは物語の舞台であるS市で、15歳まで暮らしていた。その後東京に出て、ひろし曰く「世の中をうまく渡り歩いてきた」のだった。S市に戻ってきた理由は書かれていない。ただ、東京を出て10数年を経たのち、S市に戻ってきたという事実だけが存在する。そして、舞い戻ってきたS市で光子の兄を切りつけたのもまた事実である。

おそらく、S市でなければ、たとえその地で出来た彼女に関係を断たれたところで、ひろしは誰かを切りつけることはしなかったであろう。生まれ育ったS市であればこその行為であった。帰ってきたその地で、ひろしは多くの傷ついた人たちを見てきた。そこには傷の共同体とでもいうべきものがあった。無垢であった輝明でさえ、白痴の子を傷つけ、そして自らも傷を負った。輝明が傷を負うことで、ひろしはついに、ある意味で一人無垢な存在になってしまった。無垢であることは、この地において部外者であることを意味するのだと、ひろしは感じたことだろう。

無垢でなくなるために、傷を共有し傷の共同体に属するために、ひろしは光子の兄を切りつけたのである。それも、義足でない「いい方の足」を切りつけることによって。人は足と言われたら、それは2本で1つのものとして表象する。すでに2分の1の足を傷つけている光子の兄を「いい方の足」を傷つけることで、傷ついた1(全体)を完遂することが出来る。傷ついた1を半分を自分が担うということ、それこそが、ひろしが考えついた、傷の共同体に属する方法だったのである。それは、例えば自分自身で自分を傷つけることでは得られない効果であっただろう。

小説と日常

「傷を負うことへの憧憬」について書いていくと、冒頭で示した。とはいえ、なぜそもそもそのような憧れが生まれるかというと、そこには他者との関係性が断たれることへの恐怖があるからであった。傷を負うことは、他者との関係性を把持するための1つの方法に過ぎない。であるならば、「他者と関係することへの根源的な憧憬」とでもすべきだった。

それにも関わらず私は「傷を負うことへの憧憬」を主題に据えた。なぜなら、「他者と関係したい」という思いが人に備わっているのは当たり前であり、そんなことは誰でも知っているからだ。一方で、私たちが関知しないような他者と関係する方法はおそらく無数にある。人を切りつけることだって、その一つだ。しかし、「蝸牛」を読むという経験をしなければ、そのような関係の仕方が存在するのだということは、日常の中では発見しにくい。

日常の影には潜んでいるけれど、はっきりとは表れない主題。そのようなものを見つけ出すことこそが、小説を読むことの意義の1つである。そして、見出した主題を仮想的に経験することによって、私たちは来るべき望まない未来に備えることができる。

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