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入り江に沈む愛とはなにか|ベルンハルト・シュリンク『階段を下りる女』

一人の女性が階段を下りている。右足が下の段を踏み、左足はまだ上の段に触れているが、すでに次の動きを開始している。女性は全裸で、肌は青白く、頭の毛と恥毛はブロンドだ。毛髪は光に当たって輝いている。

『階段を下りる女』p.5

ある一枚の絵が生きている。その絵に描かれたのは、階段を下りる全裸の女性だった。

「絵が生きている?」そう思った方も多いのではないだろうか。なぜそういう風な書き出しになったのか、それは読んだ者にしか分からない。とはいえ、読まない者がこの感想を持つことができないとなっては、それはそれで勿体ない話であるから、「読んでみよう」と思ってもらえるための余白を残しつつ、この作品の伝えようとするものの輪郭を浮き上がらせてみたい。

「青春論」で語られる「女」

坂口安吾が残した作品のなかに「青春論」というエッセイがある。ここには女性についての色々なことが書かれているが、とりわけ一部の女性がもつ「いのちの感じ方」についての考察が興味深い。「女がひとりで眠るということの侘しさが、お分りでしょうか」という意味の一行に対し、「大切な一時間一時間を抱きしめている女の人が、ひとりということにどのような痛烈な呪いをいだいているか、とにかく僕にも見当はつく」としたうえで、次のようなことを語っている。

だから女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その絢爛たる開花の時と凋落との怖るべき距(へだた)りに就て、すでにそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。…(中略)…女の青春は美しい。その開花は目覚しい。女の一生がすべての秘密となってその中に閉じこめられている。

「青春論」から抜粋

女について語る、ということは男について語る、ということよりも難しく、そして困難なものに思える。男の場合はとりあえず「単純な生き物だ」と言っておけばそれで事足りる印象を受けるが、女について何かを語ろうとした途端、絶望のようなものが目の前にひろがってしまう。「女は海のようだ」あるいは「女は底なし沼だ」などといった隠喩表現でもってしても太刀打ちできない場合があるのではないだろうか。女という存在はそれだけ柔軟であり、同時に奥行きがあり、そして酷く繊細だったりする、と言ってしまうのが矛盾していながらに非常に的を得た回答なのかもしれない。一文の破壊力に定評のある安吾でもってしても、女という存在は容易に描き出せないものなのだ、としておくことで一応の安全地帯を確保できるはずではあるのだが、やはりその全体というものを一度でいいから感じてみたいものである。

『「美少女」の記号論』
美少女とは何者なのか。記号論的見地からみた一冊。

「女、果てしなき夢」にみる「女」

やはり多様なものとして描かれる「女」という存在に対して、詩人として有名な谷川俊太郎さんは自身のエッセイ集『沈黙のまわり』にて興味深いことを書いていた。一つは「男は一度として目の前の女を、一つの存在として見た事があっただろうか」という意味のものと、「男は軽さ、女は重さだ」というものであった。

同じエッセイのなかに「存在しないもの」としての女と「存在するもの」としての女の双方が描かれている。 現実に一つの存在としてあらわれているはずの女が、あたかも様々な要素や部分の集合といった「意味の集まり」によって目の前に存在している――男はどれだけ実存的に女を見ようと思ったところで、本当にそれだけを見たことがあっただろうか、といった具合である(少なくともそのような読み方はできた)。なるほど、「一切の意味をはぎとった存在としての女」を見た試しがあるか、というのは、色々に受け取り方がありそうな話であって面白い。そういう意味でいえば、男という存在についても同様に考えてみたいところではあるが、やはり「男は単純だから」と言ってしまう方が腑に落ちる感はある。

『沈黙のまわり』
谷川俊太郎さん初期のエッセイ集が収録されている。

あるいは少し言い方を変えて、「男は軽さ、女は重さ」と言ってみるのもいくらか要を得ている気がする。谷川俊太郎さんは、「男は三日、女と一緒にいると、もう一人で酒が飲みたくなる。女は三日、男と一緒にいると、もうその男と一生一緒にいたいと思う」と続けていた。たしかに男は都合が悪くなると糸の切れた風船のように飛んで消えてしまうことがあるし、女は相談相手の男に会っている間にいつのまにかその人を好きになってしまうことがある。いずれにしてもよくある話であるし、両者ともそうした性格に参っていながら、人生が退屈しないのはそういう不完全なものがあるから云々言ってしまうのがオチだから、これからも続いていくのだろう。

「椅子直しの女」にみる「女」

しかし、俗的な「それ」とは決定的な隔たりがあるとして、ある女の話を紹介している作家がいる。それがギ・ド・モーパッサンだ。フランス自然主義作家の一人として名高いモーパッサンは、短編の名手でもあり、時に無慈悲ともいえる軽快な筆致を披露することで知られるストーリーテラーだ(好みの作家の紹介にはいささか熱が入ってしょうがない点、ご了承いただきたい)。

モーパッサンの短編に「椅子直しの女」という作品がある。ある館に集まった男女6名ほどが「本当の恋とは何か」について議論をしていて、男性陣は「本当の恋は何度でも出来るものだ」と主張し、女性陣は「本当の恋は人生で一度しかない。本当の恋とは落雷のようなもので、落ちてしまったら最後、すべての感情は焼き果て、後は空虚なものが漂うだけなのだ」と主張する。平行線のまま進む議論を見かねた一人の医者が、一人のブルジョアの男を想い続けた、貧乏な椅子直しの女がいた話をして聞かせる。

ここで強調されるのは、「女だけが唯一、現実をそのままの姿で見ることができる」ということである。つまり、男はいつも夢見がちである、と言っているのだ(これはモーパッサンがいっているのか、作中の医者の言い分なのか定かではない)。ブルジョアの男は、「ブルジョアである」という現実から椅子直しの女を受け入れなかったのではなく、「私は一人の女性を選ばなければならない」という思い込みから「選ばなかった」のである。少し言い方は悪いかもしれないが、その椅子直しの女との幼き日の想い出は、ふたりにとって、「本当の恋」であった。ふたりの上に雷が落ちたのだ。しかし落ちたその時から二つの異なる現実が生じ、一方の側では若葉が、もう一方の側では焼け果てた大地が拡がっていったのであった。

「階段を下りる女」にみる「女」

多くの物語が登場人物の若い頃を描くことはあっても、老後を描くことは少ないのではないだろうか。物語それ自体の性格に「老後」というものを敬遠せざるを得ない何かの存在があるとさえ感じてしまうほどである。とりわけ恋愛をテーマにした作品などでは。

あの『朗読者』を書いたベルンハルト・シュリンクが一人の老人の話を書いた。その老人にはかつて愛した女性がいて、その女性をモデルにした一枚の絵が、三人の男の人生を翻弄する。モデルの女性と結婚した男、モデルの女性を描いた画家、モデルの女性を窮地から救い出す男、それぞれがプライドと想い出の狭間で葛藤していく。作中の時制はそれぞれが年老いた老後であり、何もかもが過ぎ去ったものとして描かれている。かつての名声、築いた富、新しい家族―それぞれの人生が確実にあった。しかし男たちには若かりし日の消し去ることのできない想い出のために、数十年の時を経て、再び顔を合わすことになる。ベルンハルト・シュリンクはそんな複雑多彩な人々の老後を描いたのだ。

一枚の絵のきっかけとなった、三人の男の人生に決定的な想い出をつくった女性イレーナは、いったいどのような女であったのだろうか。きっと魅力的な女性であったに違いないが、彼女の心の内は作中でもそう多くは明かされていない。人は時として思わぬ事件に巻き込まれることがあるし、彼女の胸中はどうだったのか、作中の場面を想像しながら読むとひょっとしたら分かるのかもしれない。筆者には何となく文と文の間に、あえて書かれなかった言葉や感情が、入り江に流れ込む静かな波のように感じられた。

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