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『急に具合が悪くなる』〜不運と不幸と、ときどき「愛の不時着」

宮野真生子(哲学者)と磯野真穂(医療人類学者)の、2人の学者による往復書簡によってできたのが『急に具合が悪くなる』という本です。

タイトルと表紙からすると、あまり内容は予測しにくく、ポップな話なのだろうかとも思います。確かに入りはそういった感じも見えます。そして実際に、楽しんで読めて、かつ学問や思考が生まれる現場へと、読者を誘い込むような本を作ろうとしていたのだと思います。

ところが出来上がったものは、そうして目的を達成しつつも、読者に忍耐力を求めるような、計り知れない引力を持つ本でした。

今回はそんな『急に具合が悪くなる』について、一部分をとりあげます。そして、そこから何を考えられるのか、いわば、この本の使い方の一つの例として読んでもらえればと思います。

『急に具合が悪くなる』という本

『急に具合が悪くなる』はこういう本

不運と不幸を区別すること

なんだかとても皮肉なことだけど、不運という理不尽を受け入れた先で自分の人生が固定されていくとき、不幸という物語が始まるような気がするのです

では、ここからが本題です。

冒頭に引用したのは、第5便(章)「不運と妖術」に出てきます。何も難しいことは言っていないませんが、もう少し掘り下げて見よう。まずは、そこから話を進めていくことにしましょう。

「不運を受け入れると、不幸が始まる」。これが、冒頭の引用の言っていることです。これは5便の中でも、磯野を手紙に対して宮野が返した手紙の中の言葉です。つまりは、がん患者である宮野がこの言葉を発したのだということ。

宮野はその前の磯野の手紙の中で、「不運」と「不幸」といった言葉が使われていることをきっかけに、この両者を明確に分けるて考えることを提案します。

そうすると、まず「不運」=「不幸」という図式はキッパリ否定されます。「不運」であるからといって、その人の人生が「不幸」になるわけではないということです。

不運を理解しようとすると不幸になる

とはいえ、「不運」は「不幸」の要因であることもまた確かな気もします。そこで、もう一度引用を読み直してみましょう。「不運という理不尽を受け入れた先で自分の人生が固定されていくとき」に不幸になるのだといいます。

不運を受け入れると人生が「固定」される、そして不幸になる。「固定」とはどういうことでしょう。または、なぜ「固定」ということが問題視されるのだろうか。ここがポイントです。

これについて考えるためには、「不運」について考えてみる必要があります。

不運とは

運が悪かったというのは、嫌なことがたまたま自分に降りかかってきた時に感じるものです。偶然の出来事があって、それに続いて「嫌だな」という感覚が生起する。

ここからわかるのは、「不運な出来事」というのはそもそも存在せず、たまたまの出来事が、たまたま自分にとって嫌だった時に「不運」が生まれるのです。

より一般的にいうと、「不運」というのは主観に属する考え方だということです。その一方で、偶然性はそうした主観の問題とは関わりを持たない、不可侵の領域なのです。

偶然とは

では今度は、不運を生み出すところの「偶然(性)」について考えてみましょう。

偶然性にちょっと分け入ってみると、次のことがわかります。つまり、偶然というのはそれぞれに事情を持った、ある事象(出来事)と私の「出会い(邂逅/遭遇)」のことだというとです。

事故に遭った時、その時私がそこにいたことと、まさに私がいた場所に車が突っ込んできたこととは一切の関係がありません(因果的な説明ができない)。

確かに、私にとっては、そこにいたことは私なりの理由があります(買い物に行く通り道だったとか)。そして、車が歩道に突っ込んできたこと自体にも、それなりの説明ができます。場合によってはかなり科学的に(どこどこが故障したから、とか)。

唯一説明できないことは、私の事情と車の事情とが邂逅したという事実だけです(なぜそこで出会わなければいけなかったか)。

そして、ある出来事と私との「出会い」が「私にとって」嫌なことだった時、それは「不運」と言われます。逆に、「私にとって」良いことだったら、運が良かったと言われるのです。

このように、偶然性自体には良いも悪いもなくて(中立的、客観的)、ラッキー/アンラッキーというのは、出来事と私の相性の問題でしかありません。それは極めて主観的なものです。

不運を受け入れる、とは

さて、不運と偶然性の関係についてわかったところで、ようやく不運を受け入れることと人生が「固定」されることとの関係性が見えてきます。

繰り返すと、不運というのは主観的な問題でなぜそれが嫌なのかは理解できるけど、そもそもそのような不運な偶然が起こった理由については説明のしようがないということでした。

説明がつかないもの、それは、合理性という思考形式にどっぷり使った私たちには、受け入れることができないものです。幽霊なんて科学的に説明できないから受け入れられない、みたいに。

それにもかかわらず、人は「不運」に際して、何か説明を与えようとしてしまいます。「(「愛の不時着」の)李さんが撃たれて怪我をした。そもそもの原因は、私が北朝鮮に不時着して李さんに出会ったからだ。私が悪いのだ」、てな感じで。

繰り返すようですが、そもそも出来事との出会いというのは、説明のできない次元のことなので、その出会いの原因を自分に帰すような考え方は、水と油を混ぜようとすることに等しいのです。

両者を混ぜようと決意したところで、果たしてそれは実現するはずもなく、その人の人生はその無駄な行為をし続けるだけの不幸な人生になります。(まぁ、「愛の不時着」だったら、李さんが「そんなことないよ」っていえば終わるけど。)

人と人との出会いならば対話でいくらでも乗り越えられますが、人と単なる出来事との間では対話など成り立つはずもなく、その「不運」な出会いの原因にありもしない説明を与えて「固定」することは、まさに不幸の始まりなのです。

不運と自己責任論-モノトーンな世界

さて、ここまでくると、自己責任論の残酷さが見えてくるのではないでしょうか。

自己責任論が、他者によって言われるだけならまだ大きな問題にはなりません。そこに止まるだけなら言わせておけばいい。しかし、本当に問題なのは、自己責任論の風潮に当てられて、それをまさに「不運」に悩まされている人が内面化することなのです。

自己責任論の内面化、つまり、「不運」の原因を自分に求めることによって自分の人生を「固定」してしまうがゆえに、不幸が始まります。自己責任論の問題は、不幸の問題なのです。

自己責任論の先にある社会は、幸か不幸かしないモノトーンの世界です。神が世界というテレビを見ているのならば、今まさに、そのテレビから色が失われているかもしれない。

おわりに

『急に具合が悪くなる』という本は、ひとつひとつの手紙に、膨大な時間をかけてでも議論できる問題群が散りばめられています。ここから哲学の世界に足を踏み入れるのもいいでしょう。

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