この本の内容をどれほど誠実に、また、一切の都合のよい曲解もないしに自分にも起こりうるものとして読める男性は、そう多くはないのではないかと思います。僕もまた男性として、自分が傷つかないようにしか読めていないのではないかと不安になります。
この本はフェミニストの著者によるエッセイ集です。自分は女性を虐げたり、暴力をしたりしないし、男性が優位にあるべきだ、という考え方も持っていない、男女平等であるべきだ、と思っている男性も、この本を読んでみてほしい。
今回は、本の性質上、男性に向けられた紹介になります。女性に、どうやって紹介すればいいのか、僕には分かりません。そのような立場にもありません。
自分の過去を読む
この本を読みながら、自分の過去を振り返らずにはいられませんでした。
振り返った先にあった記憶は、ある女性を傷つけてしまった出来事です。
彼女とは小学校から高校まで一緒で、それなりに話もする間柄でした。しかし、高校のある日、僕の発言が彼女を傷つけてしまった。具体的にどういう発言でどのタイミングで発せられたのかははっきりしません。僕にとっては、あまりに日常的な会話(のつもり)でした。
いずれにせよ、ジェンダーに関わることで、僕は彼女を傷つけてしまったのです。
傷つけるつもりもなく、むしろ彼女に対して親しみや好意に近いものも持っていたと思います。それでも傷つけてしまった。
祖母たちに、平等主義者たちに、夢見る者たちに、理解ある男性たちに、歩み続ける若き女性たちに、道を開いた年上の女性たちに、終わらない対話に、そして、2014年1月生まれのエラ・モスコヴィッツが存分に生きおおせるような世界に。
『説教したがる男たち』p.6
これは、冒頭の献辞です。
僕は、ここにある「理解ある男性」のつもりでした。しかし、男女の区別が大人程大きくない子どものころと、はっきりと性的なことまで意識するようになった高校生とでは、ジェンダー間のギャップの大きさは比べ物になりません。
僕はそのギャップを見誤りました。「理解ある男性」のつもりでしかなかったわけです。
平等思想の罠
このように(僕のように)、ジェンダー間のギャップを見誤るのは、ほとんどの場合、常に男性です。と、著者は強調します。
フェミニストである著者も、女性が男性を傷つけ虐げることだってあることを十分に知っています。それを再三繰り返しもします。
しかし、著者が警戒するのは、そういった事実を持ち出して、「男性が女性を傷つけるというイメージは不平等である」と主張する「男性」です。そういう男性は、往々にして、男女平等であるべきだ、といいます。
しかし、実際は、男性が女性を傷つけることの方が圧倒的におおいのです。圧倒的に、です。少数の事例を持ち出して、その事実に目をつぶり、男女平等を主張するというのは、それこそがまさに、ジェンダー間のギャップを見誤った行為なのです。
多くの場合、現時点で力を持つものやマジョリティーが発する「平等」思想は、偏ったものでしかありません。どんなに急な坂だって、自分の目線をその傾斜と並行にすれば平らに見えます。でも、いま(も昔も)必要なのは、その坂を、正しく坂と認識することなのです。
最後に
自分を棚に上げるつもりはありませんが、きっと多くの男性は、知らぬ間に女性を傷つけてしまった過去かあるのではないでしょうか。
「知らぬ間に」なのだから、記憶に残っているかどうかは怪しいところですが、それでも、この本とともに、自分の過去を読み直してみることは、必要なことだと思います。