村上春樹さんといえば「長編小説」の印象が強いと思いますが、個人的には、「エッセイ」を書くのがとても得意な作家さん、というイメージがあります。今回は村上春樹さんの『遠い太鼓』という、ヨーロッパに3年間滞在していた頃までの話をもとに作られたエッセイ集を紹介していきます。1986年10月~1989年秋頃が舞台であり、その時期には大作『ノルウェイの森』や『ダンス・ダンス・ダンス』を書きあげたことでも知られています。村上春樹さんは本著のあとがきで、この本は僕の小説のノートブックでありスケッチブックであった、と述べています。上記の小説を読まれた方はもちろんのこと、これから読む予定のある方にも、副読本あるいは導入本として楽しめるような気がしました。
ある朝目が覚めて、ふと耳を澄ませると、何処か遠くから太鼓の音が聞こえてきた。ずっと遠くの場所から、ずっと遠くの時間から、その太鼓の音は響いてきた。とても微かに。そしてその音を聞いているうちに、僕はどうしても長い旅に出たくなったのだ。
村上春樹『遠い太鼓』p.19より
命名行為
村上春樹さんの作品(これはエッセイに限らずだが)を通して、特に印象的なのは三人称(彼、彼女)をあまり使わないことにあるのではないか。意識的に固有名詞を使っているような気がする。たとえば、冒頭部分に登場する蜂のジョルジョとカルロ。彼らはローマに移ってきたばかりの村上春樹さんの頭の中をぶんぶんぶんぶん飛び回る2匹の蜂だ。旅のはじまりに、村上春樹さん自身が「いかに疲れていたのか」について持ち出された2匹である。日本にいた時には1匹だった蜂が、ローマに着く頃には2匹に分裂してしまった、というわけで名前を付けることにしたそうなのだ。頭の中を飛びまわる蜂、というのはいささか不思議かつ実感のわかない体験だが、名前を付けることによってグッと読者のもとに話が寄ってくる(ような気がする)。頭がぼーっとして、物事がうまく考えられない、というようなことがあれば、自分の頭の中にも(もしかしたら)ジョルジョやカルロのような蜂が飛びまわっては脳みそを刺してぶよぶよにしているかもしれないなぁ、なんて思ってみたくもなる。ある存在は名前によって、より存在が際立つのだろうか。後のページでは「ゾルバ系おじさん」や「客引きラコステ男」などが登場し、縁遠いはずの現地の人々が生き生きと感じられるシーンが出てくる。
また、全ギリシャで日常的に見受けられる現象として「死に犬現象」を語っている節がある。おもしろいので引用したい。
とにかくギリシャの犬は暑い午後にはみんなこんな風に、ぐったりと石のごとく眠るのである。もう本当に文字どおり、ぴくりとも動かない。ギリシャ人にとってさえこのような「横たわり犬」の生死のほどを見分けるのは至難のわざであるらしく、…(中略)…ただじっと見て、これは生きているだの、いや死んでいるだのと言い合っているだけである。犬も暇だけれど、人間の方も相当に暇である。
『遠い太鼓』p.69より
「犬も暇だけれど、人間の方も相当に暇である」というフレーズがいい。きっと哲学的な会話でもしていたのだろう。
「この犬は棒でつついて起こすまでは生きているか死んでいるか分からないから、この状態では生と死が半分ずつ存在しているに違いない。そうだ、この犬は死んでいながら、その一方で生きている…!」「それは違うわ!この犬はとっっっっっっってもおとなしいんだから!こうして横たわっているのも彼の生にとっては必要なことなのよ」「じゃあ、あそこの犬も君が言うようにおとなしい犬だって言うのかね?」「そうよ!あの犬も、ギリシャにいる全ての犬も、みぃいいいいいいいんな、ビュウウウウウウウティフルな犬たちなんだから!」
おっと。作品中のヴァレンティナを登場させてしまった(失礼)。英語の発音に特徴があり過ぎるとして登場する彼女がその場にいたら、きっとこんな会話になっていたのだろう。やはり相当に暇な人々なのだろうか。
人生の秘密について
村上春樹さんはこの3年間の旅の大半を「女房」と呼ばれる女性と過ごし、ギリシャの島々やイタリアのほとんどの都市をまわり、執筆活動を続けながら、日常の出来事を書き残していく。何不自由ない、素敵な旅のお話が聞けるのかと思っていたら、ちょっとした喧嘩もあったそうなのだ。仕方あるまい、男女が3年も一緒にいれば、喧嘩の1つや2つ、起こりますよね。
僕が結婚生活で学んだ人生の秘密はこういうことである。まだ知らない方はよく覚えておいてください。女性は怒りたいことがあるから怒るのではなくて、怒りたいから怒っているのだ。そして怒りたいときにちゃんと怒らせておかないと、先にいってもっとひどいことになるのだ。…(中略)…この土曜日の朝の、両替をめぐる我々の口論も始めから終わりまでこのパターン(いくつかの口論のパターンが紹介された)を踏襲しつつ進行した。明らかな人生観、世界観の相違である。僕のうしろにはギリシャ悲劇のコロス(合唱隊)のような役割を果たす人々が控えていて、「人生とは所詮そのようなもの、仕方無いではありませんか」と歌い、妻の後ろのコロスは「いいえ、宿命にたちむかうのが人間の性」と歌っている。そしていつものことながら、僕のコロスの方が彼女のそれに比べて幾分声が小さく、熱意も足りない。
『遠い太鼓』p.91~92より
やはりメタファーの名手だと改めて思わざるを得ません。誰もが経験するであろう人生のワンシーンを、ここまで具体的に描き切っているのは村上春樹さんでこそでしょう。しっかりと普遍性を残しているところが、また親切だなと思ってしまいます。とはいえ、ある例えは完全な普遍性を獲得することはできませんから、なんだかしっくりこない、という方もいるかもしれません。
ブラックジョーク満載
これは翻訳家としての顔をもつ村上春樹さんだからなのでしょうか。作品中には実に多くのブラックジョークが登場します。なかには少し笑えないジョークもいくらか登場しますが、せっかくなので紹介しましょう。あるイタリア人と村上春樹さんの車内での会話です。
「ねえ、ハルキさん、1台のフォルクスワーゲンに4人のドイツ人と8人のユダヤ人を乗せる方法って知ってる?」
「知らない」
「前の座席にドイツ人2人乗せる。後ろの座席に2人ドイツ人乗せる。灰皿に8人のユダヤ人入れる。ははは」
『遠い太鼓』p.255
けっこう強烈(苦笑)。このような感じのジョークは各エッセイごとに登場します。程度に差はありますがどれも皮肉たっぷりです。そして、先ほどの会話はイタリアを縦断するハイウェイを走っていた時に話された会話で、「無料の有料道路」というような表現を使っています。理由はなんとなく分かりますよね。料金所にいるはずの徴収係がストライキをやっているから。そうして無料の有料道路が実現します。
ほかにも「イタリアの郵便事情」といったユーモアたっぷりのエッセイが続々と登場します。異国のユーモアが感じられるエッセイをゆっくり読みたい方にはおすすめの作品です。(村上春樹ファンなら尚更)
そういえば第二次大戦の激戦地マルタの人々が、度々爆撃していったイタリア人について悪い気持ちがしない理由として、こんなことを言っていたそうですよ。
「高射砲が怖いから降下せず、ものすごく上の方からばらばらと爆弾落としておしまいだった。そんなもの海に落ちるか、野原に落ちるかです。でも連中はそれでいいんです。爆弾落とせって言われたから落としたわけで、それでおしまいです。だからマルタはムッソリーニがどれだけわめこうがちっとも落ちなかった。イタリアってそういう意味ではいい国です」
『遠い太鼓』p.228