本屋に行くと誰かしら「新境地」を開拓している。
この人このあいだも「新境地」拓いてなかった?と思いながらも、別に過去のことを把握しているわけでもないので何とも言えないが、そう錯覚(事実かもしれない)するほどに、作家の皆さんは、どこかしらで「新境地」を拓いている。
ほら、今もどこかで、開拓を試みるタイピングの音が鳴っている。
新境地と地平
数秒の内に、何人もの子が死んでいると言われる。きっと、その反対に、5秒に1人は「新境地」を拓いているんじゃないだろうか。
新境地ってなんだろう。
哲学ではよく、「地平」って言葉が使われる。「可能性の地平を拓く」みたいな使われ方。辞書では、次のように言われる。
「地平」は移ろってなんぼ
「ある観点」っていうのは、こう考えればいい。
天動説から地動説へ
歴史のある段階で、天動説が覆り、地動説が常識となった。天動説の「観点」に立てば、地球こそが宇宙の中心だ、ということになる。しかし、その観点に立った時、科学は限界にぶち当たるわけで、天動説に立った時の視野というものは、とても狭量だったことに気づかざるをえなかった。
そして、「天動説」をのりこえて、「地動説」に足を踏み入れたところ、より広い視野を獲得できたのだ。
ところが、これまた困難にぶち当たる。
古典物理学から量子力学へ
確かに地動説は正しいが、その理論の基礎を築いていたのは、いわゆる古典物理学というものだった。古典物理学の観点に立つと、すべては計算可能な法則のもとに動くものと考えられる。
すると、計算方法と膨大な計算を可能にする超絶なコンピューターがあれば、未来が分かるということを意味する。人間の行動も予測できてしまうのだ。誰がいつ悲しみ、どこの夫婦がいつ離婚し、どこの誰がいつ捨てられた犬を拾うのかも。なにもかも。
もちろんこうなると、またもや限界が生まれる。古典物理学の上に新たな地平が拓かれる。それがいわゆる量子力学とか量子論とかいろいろ言われるやつだ。
こうしてみると、「ある観点」から「ある観点」への移動は、不連続ではなく連続的に移ろっていくものだということがわかる。「別の観点」からいうと、ある地平というのは、拓かれれば必ず新たな地平へと移行していく運命にあるのだ。
作家は開拓の連鎖にとらわれる
僕は、いわゆる新境地と哲学的な意味での地平が同じ意味なのではないかと思っている。同じだとして、するとこう考えられる。
ここまでの話は、一度拓かれた地平は、やがて別の地平を生み出す運命にある、ということだった。
作家は、一度でも、自分にとっての新境地と言える作品を生み出してしまえば、量子力学が生まれたように、また別の新境地を拓くように導かれる。見えない力によって。
だから、結論はこうなる。
本屋で、「あ、また誰か新境地ひらいてる」とおもったとしても、それは、しょうがないのだと思ってほしい。作家でも何でもない僕が何様だという話だが、彼/彼女らは、拓かずにはいられないのだ、新境地を。
自分の意図に関わらず、新境地は作家たちの向こう側から飛んでくるのだ。
そう、売り文句を考える出版社の方角から。
最後に
今までの話の流れをぶち壊すような締め方で申し訳なかったとおもってる(思ってない)。
最後に、ついこの間(2019.12)文庫化された今村夏子『星の子』収録の、小川洋子との対談の一部を紹介したい。
小川 (・・・)三島賞の記者会見で、「もう自分には書くことがない」っておっしゃていましたよね。
今村 言いました。
小川 それを聞いたときに私は、「ああ、書くことがないというひとは信用できるな」と思ったんです。
今村夏子『星の子』p.229
そして今村夏子は、2019年上半期、芥川賞を受賞した。彼女もまた、新境地を拓いてしまっていたのだ。
さて、僕にはもう「書くことがない」。