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アナログ時計とデジタル時計があれば哲学はできる

本田圭佑は、両手首に時計を付けて話題になったり、笑いになったりしました。本田圭佑がどうだったかは知りませんが、ちょっとこんなことを想像してみてください。

今、あなたは両手首に時計を付けています。一方はアナログ時計で、もう一方はデジタル時計です。今日の仕事も時間に追われてやることがたくさんあります。

さて、あなたは、どっちの時計をたくさん見るのでしょうか(利き手云々は無視してください)。そんな話から、今回は哲学していきたいと思います。

不便なアナログ時計・デジタル時計

問いを投げましたけども、これに答えることはしません。代わりに、とある本の引用から始めたいと思います。木村敏『時間と自己』です。今回は、この本について、とまでは言いませんが、この本を下敷きにしながら記事を進めていこうと思います。

不便なアナログ時計

もう何年くらい前になるのか、いわゆるデジタル時計というものが出現して、わずかの間に若い人たちの腕時計がほとんどデジタルに変わってしまった。(・・・)一目で時刻が読み取れるから、従来のアナログ時計とくらべて格段に便利だろう、というのが使ってみる前の予想だった。ところが、(・・・)予想に反して、デジタル時計のほうがアナログ時計よりなんとなく不便なのである。

木村敏『時間と自己』(中公新書)pp.35~36

デジタル時計は、現在の時間を一瞬で把握することができます。「今何時?」と聞かれれば、デジタル時計の表示を読み上げれば済むわけです。

しかし、アナログ時計の場合、短い針がどこにあるのかを確認して、さらに長い針がどこを示しているのかも読み取らなければなりません。何分かまで伝えたい場合は、32分なのか33分なのか、判断に少し時間を要します。

サザンオールスターズの歌に、こんな歌詞がありましたね。

「今何時、そうねだいたいね~」ってやつです。邪推も過ぎますが、これはきっと、時間を尋ねた相手がアナログ時計を持っていたのでしょう。だから気を使ったわけです。「だいたいでいいよ。何分かまでは面倒だろうからだいたいで。」

使ってみたら不便だったデジタル時計

アナログ時計は、何かと不便だったわけです。大した労力ではないけれど、正確な時間を把握するのに、少々時間がかかってしまいました。

だからこそ、人はこぞってデジタル時計を買い求めたのでしょう。

しかし、『時間と自己』の引用にもあるように、しばらくすると、おおくの人がデジタル時計からアナログ時計に戻してしまいました。どうしてでしょう。

時計は時間を把握するためのものです。だとしたら、デジタル時計こそが時計のあるべき姿であるはずです。にもかかわらず、なぜ、人はデジタル時計を止めたのか。

それは言うまでもなく、デジタル時計が不便だったからです。じぁどこが?完全無欠のようにも見えます。デジタル時計のどこが悪かったのでしょうか。

それは、デジタル時計が「今」を伝えてくれなかったからです。

「今」の豊かさ

「今」とはとても豊かなものです。「今」は必ず過去に由来しているし、必ず未来と接点を持っています。それは逆に、「今」が「今」であるためには、過去と未来に支えられていなければならないのです。

デジタル時計の<今>

デジタル時計は、一瞬で、しかも正確に今の時刻を伝えてくれるものでした。僕らが考える時計に要求するものを完全に満たしてくれているように思えます。

しかし、繰り返しますが、人はそれでもデジタル時計を「不便だ」と感じたのです。それは、どういう理由からだったのでしょうか。

それを理解するために、デジタル時計の特徴を、いやらしく眺めてみましょう。すると、デジタル時計はこう定義されます。つまり、デジタル時計は「今の正確な時刻しか伝えてくれない」ものだ、ということです

今の正確な時刻だけを伝えるのが、デジタル時計なのです。それでいいようにも思えますが、しかし、デジタル時計を使った人の多くは、気づきます。私たちが時計に求めていたのは、「今の時刻」だけではないのだ、と。

ではなにを求めていたのか、と言うと、それは「今」を求めていたのです。その「今」とは、過去と未来に関わるものでした。過去にも未来にも関わらない冷酷で孤独な「今の時刻」ではなかったのです(このようなデジタル時計の「今の時刻」を<今>と表現します。「今」とは別物です)。

デジタル時計の今=<今>
過去と未来に関わらない、抽象的な単なる「今の時刻」=<今>

アナログ時計の「今」

そろそろ本題に入っていきます。準備してください。

デジタル時計における<今>とは、「今の時刻しかわからない」という意味の、いわば、消極的な意味合いを持たせられた今でした。

それでは、アナログ時計の今(正確には「今」)はどのようなものなのでしょう。抽象的には既に述べています。つまり、「今」とは過去と未来とに支えられているものでした。

僕は、アナログ時計が伝えるもの(そして、それを見る私たちが認識するもの)が、そういう意味での「今」なのだと思います。

アナログ時計の今=「今」
過去と未来を含み、それらにその存在を支えられている今。=「今」

どういうことでしょうか。

迫るデッドライン

腕時計を付けているあなたは、ことあるごとに時計を見ます。朝、電車に乗る前、お昼休憩が近づいてくるころ、定時の退社までに終わらせなければならない仕事に追われているとき。あらゆる場面で、あなたは時計に目を落とすはずです。

では、よく思い返してください。

今日中に、それも定時の5時までに終わらせなければいけない仕事があるとしましょう。

今は2時です。残りは3時間。しかし、どう考えてもぎりぎり終わるか終わらないかといったところ。

32分経ちました。

2時間15分経過。

刻々とデッドラインが迫っています。

このような図では緊迫感は伝わりにくいですが、アナログ時計の5時を示す点(図では赤い点)に、短い針が迫っていくのを見るのと、デジタル時計の文字盤を見るのでは、この状況で、どちらがより知りたい情報を即座に教えてくれるでしょうか。

人それぞれ、と言ってしまえば元も子もありませんが、多くの人は、アナログ時計が提示してくれる情報をより欲するのではないでしょうか。

デジタル時計の情報量

ではなぜ、この状況においてアナログ時計の持つ情報がより優れているのでしょうか。

「今」は常に過去と未来に支えられているのでした。先の状況における未来とは、期限である17時という未来でした。つまり、ここにおける「今」は、純粋な「現在」と、締め切りとしての17時をも含んでいるのです。なぜなら、「今」の私の行為は、否応なく未来の締め切りに突き動かされているからです。

そして、締め切りに追われている状況で、人はその締め切りまでどれだけの猶予があるかを知りたがるはずです。

デジタル時計が提示してくれるのは、純粋な<今>でしかありません。「(デジタル時計を見て)今、14時32分だな。」と知ることができても、「あと約2時間半ある」というのは自分の頭で考えなければなりません(人によってはその時、頭の中でアナログ時計の針を進めるのではないでしょうか)。

一方、アナログ時計は、期限の17時までの「距離」を直観的に教えてくれるのです。時計盤をみて、「まだ時間ある」「やばい、もう時間がない」と感じます。この時、具体的な時間はあまり重要ではありません。ただ17時との距離を知りたいのです。

「今」は17時とまだ距離があるな、とか、「今」はもう、17時がすぐそこまで迫ってきてるなとか。

アナログ時計の情報は、単なる現在の時間ではないのです。ここでは、17時という未来との距離までも教えてくれるのです。デジタル時計との情報量の差は、歴然です。

・デジタル時計の情報=過去と未来に関わらない、抽象的で冷淡な<今>の時刻

・アナログ時計の情報=「今」の私がかかわる未来と過去との距離。距離は近い(迫っている)とか、遠い(まだ余裕がある)などを瞬時に伝えてくれる

以上のことは何を意味するのでしょうか。

人と時間

あなたは、時間をどのようなものとして考えていますか?つまり、人と時間との関係性をどのように考えていますか?

人=魚、時間=海

多くの人は次のように考えるのではないでしょうか。

この世の中には、時間というものが所与のものとして世界に存在する。だから、人は既に存在する時間の中に投げ入れられており、時間があるからこそ人は存在できるのだ、と。

イメージとしては、人間は魚で、時間は海のような存在であり、水が無ければ生きられない魚のように、人は時間の中を泳いでいる。そんな感じです。

人=陶芸家、時間=轆轤(ろくろ)の上の粘土

しかし、実際は逆なのです。

つまり、人によって時間は生み出されるのです。

譬えるならば、人は陶芸家のような存在で、時間は回転する轆轤の上の粘土のような存在です。陶芸家によって、時間は形作られるのです。

人間は、あらゆるものをそぎ落とした鋭利な<今>を生きているわけではありません。未来に広がり、過去に伸びる「今」を生きているのです。

そして、その「今」も人によってさまざまに豊かさがあります。17時という締め切りを「今」に抱え込む人もいれば、過去の悲しみに引きずられて、長く後ろに伸びる「今」を生きている人もいます。

まさに、陶芸家が作る器が1つとして同じものが無いように、「今」という時間は常に形を変え続けるのです。

人は、時計を見るとき、自分なりの「今」にとって「今の時刻」はどこにあるのだろうと知ろうとするのです。だからこそ、デジタル時計では物足りなく感じて、アナログ時計に戻した人が多かったのではないでしょうか。

文化と時間

補足的にですが、文化によっても「今」の捉え方が違うのだ、ということも知っておかなければいけません。

それは、生活様式による「今」の捉え方の差異もありますし、言語の在り方によっても「今」をどう捉えるかは変わってきます。

言語と時間に関して興味のある方は、こちらも見てみてください。

最後に

人と時間の関係性を、アナログ時計とデジタル時計から考えてみました。

以上の話は、人によって人間中心的に思えるかもしれません。しかし、そう感じてしまった人ほど、自身が人間中心主義に陥っていることに気がつかなければなりません。

ここで言いたかったのは、存在し、常に変化するものにとって時間は固有の在り方をとるのだ、ということです。人間を例にとったのは、当然、理解しやすからに過ぎません。

この記事で、少しでも「時間」の不思議さに興味を持ってもらえたら幸いです。