今年の1月から本格的にWebライターとして活動を始めたことで、これまで以上に読書の時間が増え、同時にライターという仕事について考える時間が増えた。そして、 たまたまInstagramで「500字Human」という成功者の生き方を紹介するアカウントを見つけて以来、「書く」「発信する」ということについて考えを巡らせていたのだが、少しまとまったような気がするので書いてみようと思う。
その情報は「誰を救うのか」
500字Humanの投稿の中で、「不登校新聞」の編集長をつとめる石井志昂さんの投稿が印象に残った。中学2年生の頃に学校に通わなくなった経験をもちながら、16歳で不登校新聞の編集作業に関わった石井さんは下記のような考えに突き動かされて情報発信を続けてきたそうだ。
人は本当に小さな情報でも、それも誤解されて伝わっても救われることがある
普段ライターとして記事を書く中で、その情報が「誰を救うのか」を考えて書くことは少ない。もちろん「役に立つ記事」ではあるが(あってほしい)、この不登校新聞の読者のような悩みを持った人々を救うことは少ないかもしれない。
この投稿を読んでハッと思ったのは、「情報の正確性や具体性だけ追い求めて、その記事を読む読者のことを意識の外に追いやってしまってはいないだろうか」ということだった。そのことに改めて気付いた時、僕が「書く」ことを通じて何が出来るのかを考えてみたいと思ったのだ。
しかし深く考えれば考えるほど、僕の書いた文章が「誰を救うのか」について答えが見つからないような気がした。インターネット上に放たれた情報は誰でも受信できる一方で、「誰の心にも届かない」という一面もたしかにあるからだ。Webライターとして「書く」ことが、仕事をこえていく瞬間はどこにあるのだろうか、と考えこんでしまった。
素人として「書く」
「若気の至りで思想家の吉本隆明さんに相談しましたら、こんな答えをいただきました。『僕はずっと素人としてものを考え、素人として発信してきた。それでいままでやってきて、これからもそうするつもりです』と。それを聞いて、自分も素人として頑張っていこうと決意したのです」
結局「誰を救うのか」についての答えは見つからないが、答えを見つけるための方法は分かったような気がする。それは投稿にもあったような素人としてものを考え、素人として発信することにあるのだと思う。「書く自分が素人である」という自覚をもっていれば、慎重にならざるを得ないし、いろいろなところに神経が向く。そういう精神の在り方がいつか「誰かを救う」のかもしれない。
繰り返すようだが、日々の仕事の中で「誰を救うのか」を考えて書くことは少ない。けれども、自分が発信する情報で「誰かが救われるかもしれない」という可能性を意識しつつ文章を書くことはライターとして必要なことなのだと思う。
書く内容によって情報を届ける人は異なるかもしれないが、石井さんの投稿のように「素人である」という認識のもとで書かれた文章が、まわりまわって自分のところに帰ってくる瞬間をいつかの目標にしたいと思った。
500字Humanの魅力
500字Humanの魅力は何と言ってもインタビューを受ける成功者の経験や学びを「500字」で読めるところにある。500字という構成は、各界の成功者を知るきっかけとしては最適な文字数ではないだろうか。人により共感するポイントが様々である以上、この500字Humanは本当に「誰かを救う」きっかけを与えてくれるかもしれない。気になる方はInstagramでチェックしてみてはいかがだろうか。
500字Human(https://www.instagram.com/500jihuman/)
500字Humanサイト(https://500jihuman.com/)