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贈与論の考察Ⅰ―映画『パージ』を、バタイユの「太陽の贈与」から紐解く

天体物理学は太陽の絶えざる浪費を計測していたが、それ以前から人々は太陽による返礼なき贈与を感じ取っていた。彼らは太陽が収穫物を実らせてくれるのを目の当たりにし、太陽に属する輝きをお返しを受け取ることなくただ与える人の振る舞いと結びつけたのだ。

岩野卓司『贈与論 資本主義を突き抜けるための哲学』p.86

誰かから贈り物を受け取ると、「お返しをしなくては」と思ってしまいます。たとえコンビニで売っている商品であったとしても、プレゼントとして貰った場合には何かお返しをしなければ相手にわるいような気がしてきます。

同じモノに変わりはないのに、それをプレゼントとして受け取った場合にはお返しの義務が生じる。義務とまでは言わないまでも、お返しをしないままでは気持ち悪さが残ってしまう。

この「贈り物」に関わる人々の心境の変化や返礼への期待、それにともなう経済活動などを理論として体系化したのが「贈与論」です。

贈与論はマルセル・モースの著作が有名ですが、今回は青土社から刊行された岩野卓司著『贈与論 資本主義を突き抜けるための哲学』の内容からジョルジュ・バタイユの「太陽の贈与」を考えてみたいと思います。

バタイユのいう太陽の贈与がもたらす過剰エネルギーが引き起こす「呪われた部分」が、映画『パージ』の描く世界とどのようにつながってくるのかをここでは書いていきます。

バタイユ「太陽による贈与」

古来から「太陽」は人々の間で神として崇められてきました。作物を実らせ、すべての生命の成長や繁殖を支えてきた太陽は、その絶え間ないエネルギーを一方的に与え続けてくれています。

たしかにわたしたちは太陽を神として崇めるにあたり、何か供物をしたり、時に生贄を捧げることもあったでしょう。しかしそれは太陽の絶えざるエネルギー(贈り物)に対する直接的なお返しにはなっていません。

「ただ与え続けるだけで受け取らない」この一方向的な太陽のエネルギーの贈与が人々の繁栄を支える一方で、「破壊」を招いてしまっているとバタイユは考えたのです。

太陽によりもたらされたエネルギーは人々の成長や繁栄に使われていくが、成長や繁栄がある程度のレベルに達すると、エネルギーは消費しきれなくなり、過剰となったエネルギーがやがて破壊的な消費となって現れる、という論を展開していきます。

過剰エネルギーはどこへ行くのか

そうして消費しきれなくなった過剰エネルギーはどこに行くのか。

バタイユは、19世紀のヨーロッパで起こった産業革命が過剰エネルギーを生み、その過剰エネルギーが「2度の大戦」を引き起こしたのではないか、と論を展開したのです。

贈与論的にいうなれば、「お返し」が叶わずに溜まってしまった霊的な力が、破壊的な消費(戦争)という形になって現れた、ということになるでしょうか。

「呪われた部分」とは

バタイユは太陽のこうした「一方向的な贈与」による危ない面を「呪われた部分」とよび、それは同時に避けがたいものとして記述しています。

贈り物をもらった者がお返しができないということ―それはわたしたちを妙な気分にさせるはずです。

もしかすると、わたしたちと縁遠いと感じる「呪いの正体」は贈り物のやり取りを通じて起こる「贈与」に起因しているのかもしれません。

映画『パージ』

バタイユは太陽を例にとり、贈り物の持つ危ない面を論じてみせたわけですが、贈与の問題は映画『パージ』の中にも潜んでいるのではないか、 というのが僕の考えです。

『パージ』は、アメリカを舞台にした映画で、年に12時間だけ「殺人を含むすべての犯罪行為が許される」という日の出来事を描いたサスペンスホラーです。

パージには「浄化」や「一掃する」といった意味が込められています。映画では、人々がパージによって日頃のストレスを発散し、また来年訪れるパージのために仕事に精を出す様子が描かれています。

パージにより国の犯罪率と失業率は1%まで低下、国の経済がパージ法の制定によって改善された世界がそこでは描かれているのです。

用意された祭り

日常から離れ、非日常の時間を過ごす「祭り」の要素をパージは内包しているといえます。

新たな祭りを創造することで、人々のストレスを発散する場所をつくり、日々の生産性といったプラスの部分を増大させているのです。

しかし、光が強く当たる場所では陰も濃くなります。パージ法によって国はかつてない繁栄をみせる一方で、様々な問題が表面化していく様子が映画『パージ』では描かれるのです。

「パージ」を贈与と紐付ける

バタイユの「太陽の贈与」では、やがて過剰となるエネルギーが破壊的な消費を起こすということでした。

その破壊的な消費というのが2度の大戦だったのではないか、という論にまで発展しています。

言い方を変えるならば、内で消費できないエネルギーは外に向かうしかないのです。

映画『パージ』のアメリカは高い生産性を維持しながら、犯罪率・失業率ともに1%という高エネルギー状態にあります。

やがて爆発する過剰エネルギーは外へと向かい、太陽の贈与を参考にするのであれば大規模な戦争として消費が現れる可能性があったのです。

しかし映画『パージ』では、過剰エネルギーが本来外に向かうところを、パージによって「内での消費」に転換していると捉えることもできます。

毎年の高エネルギー状態を年1回のパージによって相殺していると、一応の説明をすることが可能ではないでしょうか。

国民の生産や労働が国に対する贈り物であるならば、パージは国から国民へのお返しとして機能しているわけです。

両者ともに「受け取る義務」があり、「お返しをする義務」がここでは発生しているようにみえます。

まとめ

『パージ』はあくまで映画の話ですが、贈与論と不思議なつながりをみることができます。

もちろんパージを肯定しているわけではありませんが、贈与がかつての人間社会を支えていたことから、もう一度贈与論の有用性について考える機会になると感じました。

映画はサスペンスホラーということもあり、苦手な方もいることでしょう。視聴はそれぞれにお任せしますが、気になる方は見てみてください。

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