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際立つ「文章の呼吸」|片桐はいり『わたしのマトカ』

時々、ぼくもエッセイを書くことがある。日記のように書きはじめて次第にテーマを絞っていく。字数は800~2400くらい。一文はなるべく短めにする。書き上げたものは一晩寝かせて、翌朝リライトをする。必要だと思われる時は、1ヶ月以上の時間を費やすこともある。たかが1000文字弱の文章というのに。

「共感」というテーマ

女性の作家が書くエッセイは興味深い。エッセイとは元来そういうものだという人も多いと思うが、テーマが非常に日常的である。男性の作家にありがちな抽象的なトピックを扱わない傾向にあるのではないか。ゆえに「分からない」という事態があまり起こりにくい。表現を変えるのであれば、親切な印象である。

片桐はいり『わたしのマトカ』
幻冬舎文庫

今回はじめて片桐はいりさんのエッセイ集『わたしのマトカ』を読み、「共感」という2文字が頭から離れなかった。エッセイはその性格上、とても「私的」なものである場合が多く、私を出発点として対象に向かったり、その過程を文章化したりする。だからこそ、誰もが知っているものを「わざわざ」書こうという気にはならないし、書いたところで「それで?」と言われかねない。書き手としては絶対に避けたい事態である。何のことを書いているのか分からない文章は決して読まれないし、逆に分かり切っていることを書かれても読むに値しない。

タイトルの「マトカ」とは、フィンランド語で「旅」の意である。周知の通り、旅はとても私的な体験にあたるが、その体験の「在り方」は同じになりがちだ。そうした「旅」そのものの相反性を意識しつつ、作者は「食」という共感を得やすいテーマを選んでいる。各エッセイは「食べること」を通して作者が描かれ、また同時に一般の人々の「旅先での振る舞い」と一線を画しているようにもみえる。「みんな食べること、好きでしょ?けど、わたしみたいにサルミアッキを口に入れて、しばらくの間『何のために存在するものなのか』(p.15)なんて、考えたりするかしら」。そんな具合である。

みんなと同じだけど、少し違う。違うように見えて、実はあれと同じ。著者の目には(舌には)、異文化への境界がはっきり見えているのかもしれない。

ユーモアとリズム(文章の呼吸)

『わたしのマトカ』を読んだ感想は?と聞かれれば、すぐさま「スオミ食堂」の文章を引用するだろう。

フランス大統領が、ドイツ首相とロシア大統領と会談した時、イギリスのことを、「あんなまずいものを食べている国民は信用できない。ヨーロッパで英国よりまずいものを食べているのは、フィンランドくらいだ」と言ったとか言わないとか。さすがにイギリスの新聞はみんな怒って、「気取り屋でにんにく臭い人気のない大統領が何を言うか!」などと非難ごうごうだったそうだ。とばっちりを食ったフィンランドでは、イギリス人の奥さんをもつフィンランド人政治家が、フランス大統領に、「うちにご飯を食べにおいでなさい」と招待状を出したとか出さないとか。

「スオミ食堂」『わたしのマトカ』p.37

こうしたブラックジョークは外国人の会話を聞いているとしばしば耳にするのではないか。日本人が思わず引いてしまうような内容もあれば、上述のようなユーモアに富んだ話も多い。著者はここでも「食」の話題を紹介している。

ぼくの知り合いに沖縄に住んでいる方がいて、その方の友人であるフランス人が沖縄に旅行に来た際、エメラルドグリーンの海を前に、こんなことを言ってきたそうだ。「青い海、白い砂浜、真っ赤な太陽。まるでフランスの国旗のようだ!」褒めているのか、褒めていないのか、けっきょく最後まで教えてくれなかったらしい。

話は少し変わって、『わたしのマトカ』の特徴とも言えるリズミカルな文体に注目したい。クラブ「地獄」、というエッセイのなかで、ヘルシンキの人々が著者に話しかけるシーン。

最も不思議だったのは、彼らの目のあまりの邪気のなさだ。夜、酒、音楽、この場に最もそぐわない、済んだ目の輝きだ。話の内容はすべて忘れても、わたしは彼らのあのまっすぐな目を思い出すことができる。彼らはきっと、わたしの耳の形しか思い出せないだろう。それくらい、一直線に彼らはわたしの耳に向かってフィンランドを語った。

クラブ「地獄」『わたしのマトカ』p.94~95

本の冒頭で「はじめての作文」といっていた著者であるが、文章のリズミカルな印象は、決して初めて書いたとは到底思えない。文章の呼吸(リズム)がある作品を評価する上で重要な位置を占めるのであれば、かなりの高得点を記録するだろう。よくみると、一文の長さがほぼ同じであることもわかる。読者が息継ぎをするタイミングに迷う心配はない。きれいに記号が振られた楽譜のようである。

隠れたテーマ「距離」

『わたしのマトカ』が面白いのは、実はそれだけではない。このエッセイ集の隠れたテーマには「距離」があると思うからである。さまざまなものや対象との距離が、所々に散りばめられているのだ。たとえば、前見出しに取り上げた2つの引用部分。「スオミ食堂」の引用文には、「イギリスの新聞はみんな怒って」と書いてある。前後の文章から違和感なく読める一文だが、「新聞そのもの」が怒るなんてことはありえず、読者は「炎上したんだな」という意味をくみとる。また、次の引用文では、「一直線に彼らはわたしの耳にフィンランドを語った」となっており、「フィンランドの何が語られたのか」については、ここで深く知ることができない。作品ではとりあえず「彼らが何を語ったのか」は重要ではないことになっている。こうした主語の隣接性に基づく比喩は「メトニミー(換喩)」といわれるが、ここではあまり言及しない。いつか別の記事で紹介したいと思う。

いささかまとめのようなものをするならば、この作品を貫いているのは、著者が感じている「他者との距離」ではないだろうか。そしてそれは決してシリアスなものばかりではなく、ユーモアをまとったものとして著者に根ざしている。未知のものに対する好奇心、境界を超えようか超えまいかという心の流動的な動きが、このリズミカルな文体をつくりあげたのかもしれない。近く『グアテマラの弟』を読む予定だ。

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