執筆者ブログ masablog はこちら

小説を書くために、まず「書きあぐねる」こと

保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』について書こうとして、記事のタイトルに書名を入れようと思った。だけど長いからやめて、僕がこの本を読んで感じたことを入れてみた。そしたら、なんか「何言ってるの?」って感じのタイトルになってしまった。

書名は「書きあぐねている人のため」にと書いているのに、書きあぐねることが必要だ、なんてタイトルはどうも奇をてらっているように見えてしまう(自分でも)。だけど、悪くはないと思っています。

そう。まずいいから書きあぐねてみましょう。書きあぐねて、ストレスが溜まって、爪をかじったっていい。かじった爪の量だけ面白くなる(んじゃね)。

なお、引用の太字はすべて引用者によるものです。

書きあぐねて十余年

保坂さんも書きあぐねていた。

保坂さんは高校二年の時に、安倍公房『壁―S・カルマ氏の犯罪』を読んで、小説家を目指そうと思ったそうな。それから十余年、1990年に『プレーンソング』でデビューすることになりました。

その間はというと、どうやら、絶えず小説家を目指してはいたが、長いこと書きあぐねていらしいです。

大学に入って、周りには「小説を書いています」と宣言した手前、習作めいたものは何編か書いたけれど、それはたった一人の登場人物だけしか出てこないで、彼が突然、啓示を受けるような短い話ばかりで、とても小説とは言えなかった。

保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』(中公文庫)p.25

『書きあぐ』をよんでよかったことの1つは、「保坂さんでもそんな時代があったんだ」と知れたこと。

ちゃんと「書きあぐねる」こと

じゃあ、デビューできてから書きあぐねることがなくなったのか。もちろんそんなことはないでしょう。『書きあぐ』を読んでいくと、保坂さんはむしろ、ちゃんと「書きあぐねること」をこそ、推奨しているように思えるのです。

どういう箇所からそう判断したのか、と思われるでしょうし、根拠の提示を求めたくなるでしょう。しかし、そんな論文チックな説明はしません。

とりあえず、『書きあぐ』では「書きあぐねること」を推奨しているのだ、という前提を無前提に前提してしまいます。

ただ、これから紹介していく内容を見ていきながら、「あぁ、確かに『書きあぐねる』ことが大事なんだな」と思ってもらえれば何よりです。

なお、この記事では特に1章の内容を重点的に見ていきます。ほかの章は必要に応じて引用なりをしていきます。というのも、「小説を書くということ」というタイトルからわかるように、包括的で、本全体に貫通するテーマが、1章には書かれているからです。(それに、こんな記事じゃカバーしきれません)。

小説は何をするのか

小説は読者に何を与えているのでしょうか。喜び、悲しみ、わくわく、など物語によって様々な感情を引き起こしてくれます。とはいえ、こういった単純なカテゴリー化によって小説の特徴を浮かび上がらせようとすると、「それ、小説じゃなくてもよくない?」という結論に陥ってしまいます。

しかし、当然ながらこのような直線的な論理に入りきらない良さ(必要性)が小説にはあるはずです。

圧倒的、あまりに圧倒的な人間の肯定

小説とは、”個”が立ち上がるものだということだ。別な言い方をすれば、社会化されている人間のなかにある社会化されていない部分をいかに言語化するかということで、その社会化されていない部分は、普段の生活ではマイナスになったり、他人から怪訝な顔をされたりするもののことだけれど、小説には絶対に欠かせない。つまり、小説とは人間に対する圧倒的な肯定なのだ

同上、p.16

かなり力強く、しかし、結構抽象的に書かれています。結論は分かりやすいでしょう。つまり、個を肯定すること、ひいては人間の肯定こそ小説がやるべきことだ、ということです。

しかし、「個が大事なんだな」という浅い要約で納得してはいけないと、僕は思います。この部分をいかに自分なりに考えるかが求められます。

「個」とは何か

保坂が言うような立ち上げるべき「個」とは何なのでしょう。僕なりに考えていきたいと思います。まず、一般的な人の認識のされ方を見ていきましょう。

人は常に社会化の視線にさらされています。問題化の視線と言ってもいいでしょう。男だ、女だ、ゲイだ、レズビアンだ、小学生だ、引きこもりだ、障害者だ・・・。

人はこのように、性別も、学歴も、各人の持つ困難もすべて、社会化(問題化)のカテゴリーに当てはめられます。

そこにおいて認識された個は、いくつかのカテゴリーが縫合されたものになります(少年Aは小学生で、男で、ハーフだ、とか)。保坂さんの言う「個」と区別させるために、カテゴリーの集合体としての個を「個人」としておきましょう。

「個人」=社会的カテゴリー化によって他者と差別化される個。論理的可能性として、同じカテゴリーをもつ複数の個が存在することもある。

保坂さんが揶揄する小説は、いわば、社会化の視線を用いて形作られた、代替可能なものとしての「個人」を描こうとする小説なのです(補足すると、同じカテゴリーを持つ「個人」は、別の「個人」と入れ替えることができるのです。当然ですが)。

では、「個人」という概念を対立概念としたとき、保坂さんの言う「個」を描くということはどういうことなのでしょう。

それは先の引用でも書かれていました。つまり、「人間の中の社会化されていない部分の言語化」をすることによって現れてくるのが「個」なのです。

というよりはむしろ、「個」(「個人」ではなく)を描こうとすると、必然的になされなければならないのが「社会化されていない部分の言語化」なのです。

「個」=社会的なカテゴリー化の外にあるような、そして今後もいかなるカテゴリー化からも逃れるような個のこと。小説においては、こちらが重要。

いっきに読める小説

保坂さんは、おもしろい小説のほめ言葉としての、「いっきに読んだ」とかいう褒め方に疑問を感じます。

この疑問の持ち方からも、保坂さんの小説観が見えてきます。

小説語

「いっきに読める」ことがなぜダメなのか、ということについて話す前に、1つ、保坂さんが用いる概念について説明しなければなりません。

それは、「小説語」というものです。その対概念として「日常語」があります。

いままでの話に沿って考えていきましょう(あくまで僕の解釈です。念を押します)。

「個」を描くものが、「人間の社会化されていない部分の言語化」によるものでした。一方、「個人」は、「社会化された言語」を用いることによって描かれるものです。

察しはつくかと思いますが、僕の考えではすなわち、前者が「小説語」にあたり、後者が「日常語」にあたります。

これを踏まえて定式化すると、こうなります。

小説語=「個」を描くもの
日常語=「個人」を描くもの

日常語の読みやすさ、小説語の読みにくさ

日常語は社会化されているため、理解しやすいものです。

誰かによって発せられた日常語は、受け手の社会化された認識枠組みにカッチリはまるものなので、内容の理解がたやすいのです。

一方、小説語は「社会化されていない部分」を描こうとするので、それは必然的に、受け手が用意している社会化された認識枠組みとぶつかり合うものなのです。だから、理解は容易ではありません。

すると、小説においては「いっきに読める」ことは、必ずしも褒められたものではないことが分かります。

小説における面白さ

「いっきに読める」面白い小説を疑問視するなら、保坂さんにとって面白い小説とは何なのかを見てから、この節の結論としましょう。

本来、小説とは新しい面白さをつくりだすことで、そのためには「面白い小説とは何か」ということを常に自分に問いかけながら書かれるべきものなのだが、そうして生まれた新しい面白さというのは、新しいがゆえにそう簡単には読者には伝わらない

同上、p.22~23

面白い小説とは何か。それは、面白い小説のことである。みたいなトートロジーを言っているように見ますね。

それでいいのです。保坂さんにとって、面白さとは常に新しさを伴うものなのですから、トートロジーの再生産を絶えず行うことでもあるのです。

引用でも述べているように、新しさを伴った面白さは、新しいがゆえに簡単には理解できない。そして、新しくて面白い小説というのはまた、社会化された認識枠組みとぶつかり合う「小説語」を用いるのですから、すらすら読めなくて当然なのです。

価値観がいっさい揺るがない小説だから「一気に読める」。

同上、p.23

「いっきに読める」ことは、必ずしも美徳とは言えないのです。

常にすべてを出し切ること

よく「次の作品のためにネタを残しておく」という変なことを言う人がいるけれど、今書いているものが”第一作”にならなかったら、二作目はない。残しておけるようなネタは、たいしたネタではない。つまり、書くに値しない。それが正しく書くに値するネタだったら、いま書いている作品にそれも入れてほしい。どれもあなたという同じ一人の人間が考えていることなのだから、いまの作品に入れられないはずはない。

同上、pp.36~37

僕がこの本の中で特に感銘を受けた部分でもあります。なお、太字部分は僕による強調です。

内容としては、最後にこの引用部分を掘り下げていきたいと思います。

書けば人は成長する

一作目にすべてをつぎ込まなければ、二作目はない、と保坂さんは言います。なぜでしょう。

カンタンです。

一作目に本気を出せば、当然のことながら、書きながら人は成長するはずです。成長すれば、おのずと一歩高い壇上に登るみたいに、別の景色(二作目の展望)がみえてくるはずなのです。

似たようなことを、別の記事でも書いています。

すべてを出し切る、という言い方は確かに、その人の中にあるものが枯渇してしまうかのような印象を抱かせます。しかし、人はそういうものではないでしょう。頑張れば成長します。それだけです。

風景を書くことと文体が生まれること

全力で書くことについて、5章「風景を書く」で、風景を全力で書くことの重要性が述べられます。

風景の無限性

風景は手を抜かれたり、惰性で書かれたりしがちです。

それに対して保坂さんは、風景を全力で書くことが、書き手の能力を格段に成長させてくれるのだと説きます。

風景を書くことで書き手は鍛えられ、粘り強くなり、それによって人物の記述も全体の展望も通り一遍の出来で妥協をしないで、難しいところでそこに踏みとどまって、何度も書き直すことができるようになる。

同上、p.147

風景を書くのは難しい。と保坂さんは言います(p.131)。

人は当然のように風景を見る。小説にも、見えたように風景を書けばいいように思える。しかし、見えたように書くとはいかなる行為なのか。

今、僕に見えているものを書いてみたい。

本(『書きあぐ』、『エクリチュールの零度』、『ベーシックインカム』…)、フェイタス、イヤホン、目薬、シャーペン、コップ。さらに、カーテンのたわみ、万年筆のペン先、本のページ間の影、コップのつや、反射する光、ノートの重なり、、、。

前半、僕は見えている「もの」を書き出してみた。しかし、よく観察してみると、「もの」だけでなく、「こと」も見えてくる。むしろ、「こと」こそが風景を形づくっている。

風景は「もの」と「こと」によって作られる・・・もちろん「もの」あってなんぼだが、小説においては特に「こと」が重要である。なぜなら、風景の一回性を生み出しているのは「もの」ではなく「こと」だから

「こと」とは、いわば動詞的に言い表せるものや、ものとものとの関係のことです。光が反射すること、本が重なっていること(単に本2冊では、何も伝わらない)、カーテンがたわんでいること。

「もの」と「こと」によって風景は形作られるのですが、「もの」は有限ですが(限りなく無限だが)、一方で「こと」は無限にあるのです。人によって現れる「こと」も違うし、その時々の気分によっても「こと」はいろんな現れ方をします。

すると、見えている風景を書くことの難しさは一目瞭然です。なぜなら、そこには無限の「もの」と「こと」があるからです。

この記事もぜひ。
「こと」は「意味」とも言い換えできます。この記事は言語と「意味」の関係を解説しています。重視する「意味」が異なれば、世界(風景)は違って見える、ということです。

文体

では、文体の話をします。突飛なようですが、風景を書くことと、人それぞれの文体には深い関係があるのです。

ここまでは、その無限性ゆえに、見たように風景を書くことは難しい(ほぼ無理)、という話でした。

実は、風景が無限であるおかげで、全力で風景を書くことは文体を生むことにつながるのです。

どういうことか。

無限であるとはいえ、風景は書かなければなりません。その時必ず、無限な選択肢からの選り抜きと、選ばれなかったものの切り捨ての両方が行われます。

その選択は人それぞれです。その人の過去の中に選択の根拠がある場合もあるし、(こっちが重要なのだが)その人の身体性に基づいた選択もあるのです。

身体は純粋に「個」的なものです。部分的に若干社会的に矯正される部分はあるかもしれないが(フーコー的権力によって)、全体としては、身体は唯一無二のものです。

身体性に基づいた風景の取捨選択とは例えば、視力によるもの、背の高さによるもの、体の硬さによるもの、味覚(味の好み)によるものなど様々です。

身体は似ていることがあっても、完全に同一であることは不可能なのです。だからこそ、身体性に基づいて書かれた風景というのは、その人独自のものとなり、それが文体ともなるのです。

保坂さんは言及していませんが、哲学者・批評家のロラン・バルトは文体についてこう述べています。

文体は、(<文学の>-引用者注)ほぼ彼方にある。イメージや語調や語彙は、著作家の身体や過去から生まれて、徐々に、彼の芸術の自動装置そのものとなる。

ロラン・バルト『エクリチュールの零度』(ちくま学芸文庫)p.21

バルトも言っていますが、文体は「徐々に」生成されるものです。だからこそ、保坂さんも風景を全力で書くことを推奨するのです。苦労しながら風景を書くことは、それが身体性に基づく選択の現場であるからこそ、文体を形成するのにうってつけなのです。

もう一度、「書きあぐねる」こと

本気で小説を書こうとすれば、必然的に「書きあぐねる」はずです。

もし、今書きあぐねている人で、以上のような話が全くもって目から鱗で、意識したことなどなかった、というのならば、それは意味のある「書きあぐね」ではなかったのかもしれません。

保坂さんは、この本を読めば「書きあぐねない」などとは言っていません。むしろ、もっと苦しめ、もっと「書きあぐねろ」と言っているように思えます。

「小説語」を用いて「個」を書くことは、社会的な認識とはズレることであって、そんなもの「書きあぐね」ずして書くことはできません。

風景を書くのはめっちゃ難しいと言っているのに、風景を頑張って書けと言います。そんなの「書きあぐねる」に決まっています。

僕にはやはり、「書きあぐねろ」と言っているように聞こえるのです。しかし、それは正しく「書きあぐねろ」ということであって、方向性のない行き詰まりはあまり意味がありません。

では、どのような方向性をもったらいいのか。今まで書いたことももちろんそうですが、保坂さんは次のようにも言っています。

小説とは「小説とは何か?」を問い続けながら書くことだ

同上、p.31

最後に

「小説とは何かを問い続けながら書くこと」

保坂さんの本の結論でもあるし、この記事の結論でもあります。この意識をもって書くことで、きっとその「書きあぐね」も、新しい面白さを生むための修業期間となるでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)