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豊かな世界とはなにか|中沢新一『緑の資本論』

圧倒的な非対称である。――この一文から始まる文章群には、イスラームが資本主義にとって、その存在自体が1つの経済学批判になっている所以が記されている。「同じ一神教的世界にありながら、その経済思想には重大な差異がある」として、イスラーム経済の根底を流れる「タウヒード」(「一」を意味する)の構造を解説しているのだが、それは同時にイスラーム世界に対する「われわれ」の理解がいかに偏見に満ちあふれ、また無知であったかを確認する機会にもなるだろう。この著作を「読む」ということは、イスラーム世界への理解のため、ひいてはわれわれの未来のためでもある。物にあふれているにもかかわらず、「ある」のに「ない」ような空虚さを持ち歩く現代人には、まさに治療としての『緑の資本論』といっても過言ではない。それくらい、われわれの住む世界には意味が不足している。まずは現状認識からスタートしたい。

増殖する社会と平等倫理

現代という時代区分を正しく理解するためには、およそ「近代」がどういった時代であったかを知る必要がある。桜井哲夫は『「近代」の意味―制度としての学校・工場」(1984)にて、アメリカの批評家スーザン・ソンタグの『隠喩としての病い』(1978)を紹介している。ソンタグは19世紀における結核、20世紀における癌という二つの病について、そのシンボリックな意味を論じた。

「結核がどんどんエネルギーのなくなってゆくものであるのに対して、癌は、際限なくふえつづけてゆくもの、抑制の利かないもの」であり、「抑制できずにふえつづける癌細胞のイメージこそ、われわれを絶えず脅かしつづける」、と彼はいうのだ。たしかに、われわれは歴史の途中でこの資本主義のゲームをスタートさせ、いつしかそれ自体が生み出す力を制御できなくなっている。病と社会現象が奇妙な共通項をもつのは大変興味深いことである。

そして桜井(1984)は「このようにふえつづけるということ、ふえつづけてやむことがないということがわれわれの社会を特徴づけはじめたのは、それほど遠い昔のことではないのである。せいぜい百数十年前のことでしかない」などと述べ、われわれの現在の社会のあり方が「きわめて特異なものだ」と主張する。

少しばかり当時のヨーロッパ社会へ立ち返ってみると、そこには「民主化」への動きがあった。とりわけパリに出現したデパート「ボン・マルシェ」には、定価商法が採用され、19世紀前半までの「店に入るということは、何らかの品物を買う」という売り手と買い手のゲームの場を崩壊させることになる。こうしたデパートの出現(分割払い方式の採用etc…)などが、都市に住む人間の消費の在り方を変え、「ぜいたくの民主化」を支えていくことになったのだった。また社交の場としての機能も果たすことになり、デパートはかつて教会が担っていた役割までも請け負うようになる。そうしてますます拍車のかかった民主化への高まりは、やがてダンディズムの民主化(ファッションなどの外見上の見た目だけで「ダンディになれる」ということ)につながっていく……。それはつまるところ、階級社会の秩序が壊れはじめたことを意味していた。

このような「民主化」の根底にあるものは「平等」への欲望だとして、フランスの初期社会主義者コンスタンタン・ペクールは次のような言葉を残した。「大人と子供、富者と貧者を共に運ぶのは、同じ列車、同じ力である。したがって鉄道は、平等と博愛の倦むことなき教師として、いつまでも働き続けることだろう」(再引用)。誰もが手軽に平等を感じられる時代が到来したのである。

そして、平等への情熱が最高にたかまるのは、古い秩序が崩れ、諸階級をへだてていた壁がとりはらわれたときである。このとき、人びとは、俺のものだといわんばかりに「平等」のもとへ殺到し、それにすがりつく。こうした排他的な情熱に身をまかせて、人びとは聞く耳をもたなくなる。自由がいつのまにかなくなっていても気にもとめないのである。彼らは盲目のまま、全宇宙のなかでほしいと思うのはただひとつのことだけなのだ。「みんなと同じでありたい!」

序章 「近代」の意味するもの『「近代」の意味―制度としての学校・工場』p.26

「みんなと同じでありたい!」という平等の意識は、われわれ現代人にも共通の認識ではないだろうか。もちろん文化には差異があり、150年ほど前のヨーロッパのそれを同じように当てはめて考えるのは危険である。しかし、いまや世界中を覆っている資本主義経済の土台を作ったのは紛れもなくこの時代なのであり、とりわけ「消費」や「経済」における売り手と買い手の心理状況はさして変わるところがないのではあるまいか。流行に敏感に反応し、新しいものはとりあえず試してみる、といった消費行動は都市におけるマーケットの基本的な考え方にすらなっている。それゆえに現在の経済を考えることは、現代という時代を考えることであり、ひいては諸々の制度を作った近代を問うことにつながるのである。

増えないもの、「一」の論理

『緑の資本論』では、同じ人類であるホモサピエンス・サピエンスが、それまでの人類であったネアンデルタール人とどのような差異によって「霊的な飛躍」をとげたのかについての記載がなされている。端的にいえば、それは一神教の成立であった。『律法の書』にてモーセの前に出現した神は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言い、また「ヤハヴェ」という名前であることも告げたという。「生成し、変化し、増殖をおこし、メタモルフォーシスする神ではなく、ただ「ある」としか言わない神、いっさいのイメージを拒絶して、ただ名前だけをもった新しい神の出現」だった。これまでの人類(ネアンデルタール人)の大脳では、複数のコンピューターが部屋ごとに機能を分担しているだけで、そのコンピューター相互の連絡回路が十分に発達しておらず、したがって、「言語分野・社会分野・博物分野などの間に、連想や比喩や対応を利用した横断的な思考をおこなうことができていなかった」。そのような人類の「流動的知性の奥に、なにものにも限定づけられることのない、どこにも領域化されることのない、…(中略)…おそるべき力をみなぎらせた実無限を発見し、それを「一(いつ)」であるものとして表現しはじめたのである」。

中沢新一『緑の資本論』
ちくま文庫

自分たちの存在を特徴づけている流動的知性の働きの内部ないし奥に、変化しないもの、生成しないもの、増えないもの、減らないもの、条件づけられないもの、限界づけられないものを見出し、そこに横断性や変容性や増殖性よりもずっと根源的な「超越」のあり方を発見して、これを「一」と言った。

『緑の資本論』p.51

しばらく引用文が頻出してしまったが、本著でもかなり重要だと思われる部分であったため敢えて強調した。一神教を信仰するイスラームにおいて、一神教それ自体が「存在者の世界を「均質化」するという事態は、おこりえない」ため、単一化に対する拒絶の程度はひどく、それゆえあらゆる「存在」が均質化されることを頑なに拒むのである。それは存在者が、「一」と直接性において結ばれており、1つとして他の存在者と同じであるということが認められていない、ということなのだ。このような考え方に立脚すれば、イスラーム経済において、物の代わりである「貨幣」の「利子」を厳禁とする所以がみえてくる。つまり、存在との関係性としてあるはずの貨幣が、ひとりでに増殖すること(利子を増やすこと)が認められないということなのだ。

豊かさについて

本著で重要だと思われる点について少しばかり(理解の及ぶ範囲で)記述してみたが、キリスト教を支える「三位一体」の論理やイスラームの「タウヒード」について、まだまだ説明が不足してしまっている。本著には著者の伝えたいことが丁寧な論調で書かれているため、今日の一神教解釈に至る歴史的変遷や、具体的に起こったできごとについて知りたい方には一読することを薦める。

貨幣が増え(利子の増殖)、物にあふれ(自由状態に入った浮遊シニフィアンの増殖)ている社会は、一見するとわれわれを豊かにしているようにみえるが、それは本当なのだろうか。われわれは富める一方で、どんどん貧しくなってしまってはいないだろうか。今回このような著作を読んでからは、シナイ山の頂上付近で石板を授かったモーセが聞いた、「イメージの絶対的貧困の砂漠において「わたし」を発見し、ただ「わたし」だけを愛しなさい」という言葉は奇妙な説得力をもったように感じられる。

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