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『はじめての沖縄』で「はじめての政彦」

考え方を変えてくれる本というものがある。そういう本を読むことは、読書の醍醐味だ。一方で、想像力を豊かにしてくれる本というものもある。今回は、そういう本を紹介したい。岸政彦の『はじめての沖縄』がそうだ。

想像力

考え方を変えてくれるものと、想像力を豊かにしてくれるものとは一致する場合もあるし、そうでない場合もある。考え方が変わるというと、いい響きを持っているけれど、必ずしもそれがいい方向の変化であるとは限らない。想像力の欠片もない考え方に傾倒することだってあるだろう。そして、考え方は変わらないけど、ただ想像力が豊かになることだってある。とはいえ、こうやって2つを分離して考えることはあまり意味がないかもしれない。想像力というものはそもそもに、考え方云々とは別の次元の話だともいえる。

しかし、こう言ってみたところで、それも一つの考え方ではないか、と言われてしまえば閉口してしまう。実際その通りである。想像力が足りない、とかいう言葉はしばしば弱者を擁護し、強者の論理を諫める立場から言われることであるが、だとすれば、想像力を重視するということは、単なる考え方の1つであると言われても仕方がない。まして、想像力がない、などという言葉が横行して、いつしか他人を冒とくする暴力的な響きを持ってしまった時などには、もはやその言葉を使っている人間の想像力を疑うべきである。

まぁ。あれこれ考えても仕方がない。いずれにせよ、今の日本で、というより、今の日本人にとって想像力を豊かにしなければいけないということは、やはりある程度の妥当性があると言って差し支えないと思う。他人を傷つける道具にされたのでは、日本語もたまったものではないだろう。

岸政彦とクライアント

岸政彦は、すぐに泣いちゃう日本の社会学者である。ツイートなどを見ていると、自分が今泣いていること報告するだけのツイートもある。こう書いたところで、僕は別に嘲笑の意味合いを込めているのではもちろんない。「あいつすぐ泣くんだよなー」的なノリである。好きであるが故のやつである。

岸政彦のファンもまた、みんな、すぐに、泣く。そして、岸政彦同様に、泣きのツイートをしている人もいる。ツイートをせずに静かに泣いているファンはもっとたくさんいると思う。岸政彦の本を読んでは泣き、岸政彦がNHKに出ても泣き(←ちょっと誤解を生む言い方)、しまいには、岸政彦が泣くと、泣く(←これは僕の勝手な予想)。というわけで、ももクロのファンを「モノノフ」って呼ぶ感じで、岸政彦のファンのことを(あるいは、岸政彦のファンである僕のことを)僕は勝手にクライアントとでも呼ぼうかしら。clientならぬ、crientである。cry(泣く)にentを付けた僕の造語である。接尾辞の付け方とかよくわからないから適当だけど。まぁ。日本語で書けばその辺はごまかせる。

さて、もう少し、岸政彦ついて書こうと思う。

彼は基本的に「沖縄に深くコミットしている」「よく泣く」「ネコ好き」の社会学者である。若いころに沖縄病にかかったそうで、以来、しょっちゅう沖縄に出向いて調査を行っている。彼の主著は、ボリューム的に『同化と他者化-戦後沖縄の本土就職者たち―』だろうか。たしか博論をベースに書かれたものである。タイトルの通り、戦後の沖縄で本土へ就職していった者たちに焦点を当てて書かれたものだ。叙述の仕方は、まず、前半で戦後沖縄の経済成長は右肩上がりだったにも関わらず、わざわざ本土に就職する人が多くいたこと、そして、その多くが沖縄に帰ってくるのだという事実(この点が「同化」と「他者化」というテーマと深くかかわっている)を、データをもとに明らかにする。その後、その当時本土に就職をした人たちへの聞きとりの分析に移る。最後に、これらを踏まえて、結論に乗り出す。データ分析によって明らかになる事実と、聞き取りで明らかになる細部のダイナミックな絡み合いが、読んでいて爽快である。

そして、その後の岸政彦の著述活動を予告するようなエモさが、すでにこの大部の学術書の中に表れていた(三線の音を聞いて泣くあたりとか。詳しくは読んでもらえればと思う)。

「はじめてのきしまさひこ」

『はじめての沖縄』は、僕が初めて読んだ岸政彦の著作である。岸政彦の名前だけ知ってはいたが、どういうものを書くのかについての情報は一切なかった。だから『はじめての沖縄』は、写真も多いし読みやすそううなエッセイだったからちょうどよかった。彼の本をいろいろ読んできた今だからこそ言えるのだが、『はじめての沖縄』は、「はじめてのきしまさひこ」としても最適だと思う。なぜか。少し雑なまとめ方だが、「エモさ」と「沖縄」という岸政彦の重要な要素を一挙に感じとることができるからである。

岸政彦の「エモさ」についてもう少し深掘りすると、彼のエモさは、「人生」という複雑怪奇で訳の分からないものをそれでも愛そうとするまなざしのようなものから漏れてくるものだ。だからこそ、複雑さの極みである沖縄についての、あるいは沖縄の人びとについてのエッセイは、「はじめてのきしまさひこ」にふさわしいのだと、僕は思う。

エピソードを1つ・・・

とあるいい会社に勤めている女性に、彼は聞き取りを行った。彼女は基本的に基地を容認している立場だという。米兵に友達もいるらしい。しかし、そんな彼女が酒の席でぽろっと、「沖縄ってほんとに植民地だからね」といったそうだ。僕は、あぁ、と思った。そして泣いた。矛盾である。「矛盾」と形容したくなる発言である。しかし、僕はこれは、矛盾ではないのだと思った。ではなんなのか、と言われれば、答えようがない。ただ、これを「矛盾」と形容することで、思考は、想像力はそこで止まってしまう。彼女の発言は矛と盾ではない。どちらも彼女なのだ。「どちらも」というこ言い方すら憚られる。「これが」彼女なのだ。そう思った時、僕は僕の想像力が少しだけ豊かになったとおもった。

僕がこの本を読んだのは大学4年のころだった。すでに沖縄に4年近く住んでいた。しかし、ここにあったのは、4年間では知り得なかった「はじめての沖縄」だった。もしかしたら沖縄という地はそういう場所なのかもしれない。何度も何度も、新たな事実、新たな感情に触れるたびに「はじめて」に突き返されるような、そんな場所なのかもしれない。『はじめての沖縄』は「『はじめて』の沖縄」であることを知ることができる本である。

いま、僕は沖縄を出て、遠く岩手で暮らしているけれども、高校まで沖縄のことを考えたことがない僕にとって、ここから沖縄を考えることは「はじめて」だ。

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