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「人類学者こそエッセイを書くべき」と思える作品|石井美保『めぐりながれるものの人類学』

学問と聞くだけで、知識欲や学ぶ意欲が失せてしまう―そんなことはないと思いたいですが、実際のところ「経済学」や「数学」と聞くだけで、なんとなく自信を失くしてしまう自分がいます。それは僕が文系の学問に対する抵抗がなく、理系の学問に対して苦手意識があるためですが、最近では「境界の学問」(そういって差し支えなければ)が人気ということもあり、両者の溝は埋まりつつあるのかもしれません。そうであれば、その領域に触れるための「きっかけ」のようなものが欲しいなと思ったりもしますよね。

ごくわずかではありますが、僕にも理系の学問といわれている分野の方とお話することがあって、たとえばブラックホールの研究をされている方などとお話しすると「ホーキング輻射」の話が出ることがあります。

これがとても面白いもので、ブラックホールが物質を飲み込む時、物質が粒子と反粒子に分かれ、一方がブラックホールに落ち、一方が放出されているように見える現象のことを言っているのですが、もっと面白いのは、この粒子・反粒子の誕生が宇宙空間だけでなく、地球の空気中でも起こっているということでした。

粒子と反粒子が生まれては消えていく―厳密にいえば説明が不十分で、観測者によって解釈が変わるものではありますが、何もない場所から何かが生まれるというのは、とてもロマンチックでかつ現実の世界を拡げてくれるものではないでしょうか。

たとえばの話をしたわけではありますが、こうした「きっかけ」の物語を聞くと、宇宙や物理学への関心が高まるといいますか、「自分でも理解できそう」という気がしてきますよね。もしかすると自分に関係があるのかも…と思ったりするのは僕だけでしょうか。

物語からみる人類学

「人類学」と聞くと、とても難しそうな印象をもつ方もいるようですが、実際はそんなことはありません。どこか遠くの国の、小さな集落の、ささやかな日常の風景をまるで旅人のように見聞きしながら、そこにわたしたち都会に住む人間と違う点や、逆に普遍的だと思える要素を取り出していくことに、主な活動の場があります。なので、どちらかといえば現場から入り、後からレポートとしてまとめるというような感覚が近いのかもしれません。

もちろん「学問」ではありますので、人類学の中にも抽象的な話題を扱う領域もあります。バラエティ豊かな学問ではありますが、とっかかりとして「物語」から入る人が多いことも事実なんです。昔話を聞くような、神話を読んでいるような…そんな感覚で「人間の今」を人類学の豊富な調査報告から垣間見ることができます。

「リイヨ」が食う

これからする話は『めぐりながれるものの人類学』(石井美保,2019)に収録されたショートストーリーの1つを大まかに紹介したものです。重要だと思われる部分をピックアップして紹介していきます。

「「人」からの遊離」というタイトルで書かれたこの物語は、著者がガーナで暮らしていた時のこと、村はずれを歩いた時に覚えた感覚を書いたもので、虫や色々な音の重なりの中に一瞬「自分」が消えてしまう孤絶感をあらわしたものでした。

日本語で「蝉時雨」という言葉がありますが、それに相当する現地人の言葉で「リイヨが食う」という言葉があるそうです。人類学者の河合香吏さんは、リイヨとは、「蝉」や「耳鳴り」、「ひとりであること」をあらわし、したがって「リイヨに食われる」ものは、「牧童のふだんの心持ち、人としての自我や輪郭といったもの」で、「それは外部から人の身体に浸透し、人の知性や感情の座を脅かす何ものかであるらしい」としています。

つまり、慣れ親しんだ「人」のいるキャンプを離れて、村はずれの牧草地にいる時、蝉や虫の絶え間なく続く鳴き声を聞き、ふと「人」から遊離してしまうことを表現していたのです。

野に生きる人々はこうした「孤絶」を嫌い、時には「人」としての「わたし」の存在を脅かすものとして、今日まで語り継いできたようでした。

「あの時分、こわがっていた?」と、私はきいてみた。しばらく間をおいたあと、カマンテははっきり言った。「そう。野原にいる男たちは、みんなときどきこわがるものだ。」「あんたはなにをこわがっていた?」カマンテはちょっとのあいだ黙ってから、私の顔を見た、彼の表情は深い落ちつきを見せ、そのまなざしを自分の内面を見つめていた。「ウーティスを。野原にいる子供たちはウーティスをこわがっている。」

『めぐりながれるものの人類学』p.17,再引用

「孤絶」という経験

まわりから離れて1人でいること―そういう意味合いでいくと、この一見不思議ともいえるショートストーリーには、都会に住むわたしたちにも馴染み深い物語のように聞こえてきます。たしかにこの物語であらわされた「孤絶」はその土地でしか体験することのできない「孤絶」かもしれません。

とはいえ、全く理解不能ではなく、もしかすると「自分にもそうした経験があったかもしれない」と振り返ってみたくなる方もいるのではないでしょうか。よく考えてみれば、あれは「リイヨ」か「ウーティス」だったのではないかと思ってしまう人もいるかもしれませんね。

しかし文化が変われば「感じ方」というのは変化していくもので、彼らがもっとも恐れているのが「リイヨ」や「ウーティス」であるならば、わたしたちにも恐れるものがいくつかあるはずですよね。

「マブイ」を落とす

少し僕の故郷である沖縄につたわる話をします。もしかすると知っている方もいるかもしれませんが、沖縄には「マブイ込め」(うちなーぐちだと「マブイグミ」)という、儀式と呼ぶよりも、もっと日常的に行われている行為があります。

これは、ある人が「驚いた時」や「深く感情に関わる物事があった時」に「魂が抜けたような状態になること」を防ぐために、ユタや霊感の強い者が、マブイ(魂)を落とした場所で、改めて身体にマブイを込める(入れる)行為を指します。

どこか遠い国の、それも昔の話だと思われた方もいるかもしれませんが、これは実際に今この瞬間にも、地元の民俗信仰によって行われています。異様に感じるかもしれませんが、沖縄に生まれ育った人々にとっては、「マブイを落とすこと」はあまり好ましい事態ではありません。そういう時には、かかりつけ医ではなく霊力の高い者(セジダカー)に診てもらう必要があるのです。

MEMO
この「魂を落とす」という行為は沖縄に限った話ではありません。ペルーの首都リマの郊外でも同様の現象が報告されています。そうした状態に陥った人々は判断力が鈍ったり、体調が優れない日々が続くようです。

「ペヨーテ」巡礼

また別の話になりますが、中沢新一さんの『人類最古の哲学Ⅰ(カイエ・ソバージュ)』に記されていた物語を断片的に紹介します。

ある村の調査報告では、男性が村の外で狩猟を行い、女性が村の中で炊事やそれに関わることを行う日常が記録されていました。ある時期になると、男たちは過酷なルートで聖地ウィリクタへ行き、ペヨーテという植物を食します。空腹の状態で食べることもあってか、男たちはそのペヨーテがもつ幻覚作用によって、「キラキラと光がはじけては散ってしまうような」世界に「みんな」で行くことになります。「みんなで」というのが重要です。

「見えざるもの」との関わり方

こうして村からはるばるやってきて、ペヨーテを食べ、みんなで同じ場所へ行く、という行為が神聖であり続けるためには、その行為を「みんな」でやる必要があります。一人でも欠けたり、例外を認めてしまうと、その行為がもつ神聖性を失ってしまう恐れがあるのです。

日本人だって、お正月には初詣に行きますし、沖縄の人々だって清明祭(シーミー)にはお墓で食事をすることになっています。国や文化は違えど、「見えざるもの」との関わりには「みんな」というキーワードがあるようです。

わたしたちはこうして違う文化の風習や儀礼を目の当たりにすることで、そこにあるコンセンサスのとれた宇宙観のようなものを知ることができます。とはいえ、それらの行為はそこにいる人間一人ひとりが関わることによって微妙に変化していく運命にあります。今この瞬間にも「ペヨーテ巡礼」は少しずつ変化しているのかもしれません。

人類学者はそうした変化について、時に後ろめたさを感じることもあり、調査を行うことによって変わってしまう現地の人々の暮らしにいつも危機感を覚えています。だからこそ、常に聞き手にまわり、「記録する者」として受け入れてもらう必要があるようです。『めぐりながれるものの人類学』にはそうした人類学者の苦悩も綴られていました。

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