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「おにぎり」誰が握るか問題

「おにぎり」誰が握るか問題―そんなタイトルの本があるわけではないが、もしあったら随分面白い本になるんだろうなと勝手に想像を膨らましていた。

仕事が忙しかった頃は日常の会話の中からこういった「くだらない考え」が出てくることもなかった。けれども、少し暇ができた今になっては日常茶飯事といえば日常茶飯事で、ちょっとそれっぽい話ができそうな気がしたので書いてみようと思う。

特段面白い話ではない。ので、電車に乗りながら、タクシーの後部座席に乗りながら、「ながら読み」してもらえたら嬉しい。

「たしかに考えてみたらそうだよね」とか「じゃあ、あれもこれも考えてみたらみんなそうかもしれない」なんて思って頂けたら非常に嬉しい。

この間、駅を出たところのコンビニで「おにぎり」を買った時にふと思ったこと。それは由々しき哲学的問題(あるいは人類学的問題)であるような気がしたのである。

「おにぎり」という経験

日本に生まれたわたしたちにとって「おにぎり」はとても身近なものだ。自宅で炊いたごはんを握ってみればそこに「おにぎり」ができ、コンビニへ行けば「おにぎり」がある。

ちょっと大げさではあるが、わたしたちは「おにぎりに囲まれて生活をしている」と言ってもいいくらいだ。

問題はもちろん「おにぎりが街中に溢れかえっていること」ではない。「おにぎり」をめぐって個人的に解決したい過去の経験があるのだ。

友人の母親が握った「おにぎり」が食べられなかった

「許せないこと」というのは人それぞれである。それは時にとても憎いものだったりするが、僕の「おにぎり」の場合はそう憎いものではない。

けれども、ずっと頭から離れないことの1つだった。友人の母親が握った「おにぎり」がどうしても食べられなかったのだ。

僕は小学校から高校生まで野球をしていて、週末の度に「おにぎり」を目にしていた。高校生の頃にいたっては休み時間にこっそり食べていたくらい身近なものだった。

とはいえ、そんな僕が持ってきた「おにぎり」を、嫌な顔1つせず食べる友人たちを見て少し違和感を覚えたのだ。断っておくが、もちろんその友人のことを嫌いなわけではない。

今では誰かが握った「おにぎり」でも、きっと食べられるはずだ(まだ試していない)。「おにぎり」自体は変わらないのに、自分はもう「おにぎり」を食べられるようになった。どうしてなんだろう。

「おにぎり」の奥にひそむ「なにか」

「おにぎり」にはどんな力がある(あった)のだろうか。「おにぎり」には何か隠された力のようなものがあるのだろうか。

そう考えてみると、「おにぎり」の奥に何かが見えてくるような気がする。何かがこちらを見つめているような気もするし、そんなことはないような気もしてくる。

もう少し「おにぎり」について考えてみたいと思う。

「人」あるいは「人以外」

誰しも「おにぎり」を食べた経験があるだろう。そして誰かから、誰かの握った「おにぎり」をもらったことがあるだろう。その「おにぎり」は一体誰が握ったものだろうか。

別にそんなことは重要ではないと言いたい人もいるだろうし、そこまで考えてしまうのは僕だけなのかもしれない。

けれども、その目の前の「おにぎり」が誰に握られたものなのかは最終的な判断ができない。僕に「おにぎり」を渡した彼(彼女)はこう言うだろう。

「(今朝、母親が握ったものだけど)食べる?」「お腹いっぱいだから食べない?」

そして受け取った僕はこう思う。この目の前の「おにぎり」は、本当に彼(彼女)の母親が握ったのだろうか、と。

もらった「おにぎり」を握ったのは「自分」かもしれない

先ほどの見出しを「人」あるいは「人以外」としてみたが、何も宇宙人が「おにぎり」を握ったのだと言いたかったわけではない。

「おにぎり」を握ったのはおそらく「僕以外の誰か」である。しかしその「おにぎり」が僕の前に「おにぎり」として現れた時に、そこには別の可能性も同時に存在するのではないだろうか。

それは、その「おにぎり」を「自分」が握った、という可能性である。つまり、握られた「おにぎり」が目の前に現れた時に、「改めて握られる」可能性を考えてみたいのだ。

「おにぎり」はただ米を握って出来るのではなく、実は「想い」も握って出来るのではないか。「おにぎり」は差し出される場所によって、その誰かによって「握り直されている」のかもしれない。

「おにぎり」の中身は「具」だけじゃない

「おにぎり」の中には「具」以外に何も入っていないし、誰が握るかによって特段味に変化があるわけでもない。

そうだと分かってはいても食べられなかった自分を振り返ってみると、やはり「おにぎり」には何かが隠されていると考えたくなる。

ひょっとすると、「おにぎり」そのものには何の変化がなくても、向き合った「自分」との間で何か見えない力が働いたかもしれない。

「おにぎり」の現場に立ち返る

少し夢診断のような展開になってしまうが、誰かからもらった「おにぎり」が握られた現場に立ち返ってみたい。その「おにぎり」は一体誰が握っているだろうか。

もしそこで少しでも「自分」が握っているような気がしたら、この記事を書く意義があったと思う。

答えが分かれる「おにぎり」誰が握るか問題

「おにぎり」誰が握るか問題を、さりげなく友人や知り合いに唐突に聞いてみる。

「(誰かから)もらったおにぎり食べられる?」

答えは色々。「知っている人だったらOK」「親しい人だったらいいかな」「コンビニのおにぎりしか食べない」などなど。

最近ちょっと思うのは、大学時代に『日本における「おにぎり」の変遷』のような論文を書ければ面白かったな、ということである。

ひょっとすると「おにぎり」にはとてつもない力が隠されていて、それが時代の移り変わりと一緒に変化してきた、みたいな話が出来ると面白い気がした。

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